儚く歪んだ、祈りの綺麗

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9.葬歌


かなしい かなしい
いたくて くるしい
にくくて にくくて しかたがない

かなしい いたい くるしい にくい…

けれど、それ以上に――…



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どこか、懐かしい匂いがする。

ホールの入口付近にいたそれには眼が3つあった。本来あるべき所に2つと、額に1つ。額にある眼は縦に配置され、縦に割れているのだろう動向は水平に線を引いていた。3つの瞳はどれも赤く染まり、割れた瞳孔だけが黒々としている。例えるなら猫か狐だろうが、後ろ足の1本だけが、取ってつけたように不自然な猛禽の足になっている。尾が3本あり、真ん中のものだけが他の2本よりも少し長い。全身は黒い毛で覆われていた。

「シ者だ!下がって!」

司教の声に参拝者たちが壁際へと寄る。釘づけられたように、シ者から目を逸らさずその場に留まったままのシャハトの手を先程の老婦人が引いた。

「ほら、あなたも早く」

シャハトは一度老婦人に視線を落とす。そこにあったのは不安気な、けれどこちらを心配するような老婦人の顔だった。その表情に逆らえず、シャハトは老婦人に引かれるままに後退する。

耳の中で心臓の音が聞こえた。別に、シ者を恐れている訳ではない。あのシ者は中級にも満たない、精々下級の上程度だ。その程度のシ者が魔術師を、それも始祖の力をより濃く受け継いだ王家の血筋を、どうにかできるものではない。そしてそれは司教らにも言える。教会に仕える司教はある程度の方術が使える事を義務付けられている。ましてやここは教会。彼らに都合よく出来た空間であるはずだ。あのシ者に、万に一つも勝ち目はない。
けれど、だからこそ、シャハトは焦っていた。

イヴリースについて堕天したものは、シ者の他にもいた。いや、正確には、彼らはもとは同じだった。ミゼルに降りてイヴリースが見つからなかったとき、一端ミゼルから去ったものと去らなかったもの。それが今日の彼らの呼び名を決めている。ミゼルを去ったものたちは、けれど天界には帰らず、カルラを避けて存在する世界の狭間に留まった。ミゼルを出た事で彼らの魂は歪む事なく、その理性も保たれた。やがてイヴリースが人間と同化したと知った彼らは、彼らの判断によって、その人間を助けるようになる。それが、魔術師が<契約精霊>と呼ぶものたちだ。そして、ミゼルに留まり続け、魂を歪ませ理性を失くしたもの、それが<シ者>である。

つまり、<シ者>とは<契約精霊>同様、魔術師の眷属なのだ。

どこか懐かしい匂い。
匂いと言っても嗅覚で感じている訳ではない。五感ではなく、もっと深い所――記憶と、意識の底で感じる、焦燥に駆られるような切ない匂い。懐かしいのは当然だ。何故ならこれは、それが同族と判別するための、魔力の匂いなのだから。

それが、目の前のシ者からする。

同胞を、自らの眷属を見捨てるのか。
シャハトは自問する。けれど、それに対する答えが見つからない。
見捨てて良い訳がない。それは解っている。シ者が誰の為に堕ちたのか、何故あんな姿になってまでこの世に留まっているのか。それを考えれば見捨てられる訳がなかった。
しかしここでシ者を庇えば司教たちは自分を訝しむだろう。そこから自分が魔術師だとバレるのは時間の問題だ。そうなればいずれイリスに飛び火する。ここ数十年の間、なんとか均衡を保っている教会と魔術師の関係に影響を及ぼすかもしれない。それに――…

シャハトは隣で小さく震える老婦人を見遣る。

――それに、この人は俺をどう思うだろうか。

魔術師と関わっただなんて、魔術師の為に心を砕いたなんて。ましてや自分は――…
左眼がちりちりと痛む。そこに、見える気がした。

蔑むような、恐れるような、目。隠される事のない、剥き出しの嫌悪と拒絶。

嫌だった。そんな目を見るのは、向けられるのは、堪らなく嫌だった。


そうしている間にも騒ぎを聞きつけた他の司教たちが集まってくる。シ者は焦点の合わない瞳でくるくるとそれを見つめるばかりで逃げようとしない。当然だ。シ者は考える事も出来ず、そして残った本能でさえ麻痺しているのだから。

司教が方術を放つ。シ者はそれを避けるが、避けた先にも方術が放たれる。

「がああっ!」

光る矢のようなものがシ者の赤い右目を貫いていた。そこから同じ赤い血が流れ体毛を濡らす。方術がシ者を捉えてその場に縛り付けた。その様が見ていられなくて、シャハトは強く目を閉じた。
方術の更なる展開のため、祈りを唱える司教の声に交じってシ者の吠え声が聞こえる。苦しみの中でもがくように、痛々しく耳に響いて、脳を震わせた。



悲しい 悲しい
あなたはどうして私たちに何の相談もして下さらなかったのか
痛みも苦しみも
あなたがいてこそ救われるのに
どうしてあなたはいなくなってしまわれたのか
憎い
あなたにそうさせた神が
私たちを置いて行ったあなたが
何も出来ない自分が
この世界の全てが
憎くて 憎くて 仕方がない

悲しい 痛い 苦しい 憎い

けれど、それ以上に――…



「さみしい…」

シャハトはもう目を閉じてはいなかった。小さな声でぽつりと呟く。
拒絶されるのは、受け入れて貰えないのは、ひどく、さみしい。心細くて、不安で、怖いのだ。それが分かるから、知っているから、シャハトはふらりと前へ出る。隣で老婦人の驚いたような声が聞こえたが、もう気にならなかった。
頭痛が酷くなる。脈打つような痛みの拍動で視界がその度に揺れた。


シ者と対峙していた司教たちは、突然自分たちとシ者との間に割り込んできた少年を認めて瞠目する。その少年はあろうことかシ者をその背に庇うように立っていた。少年の視線は安定せずに辺りを彷徨い、そのうち何度かあった瞳に、彼がこちらを見ようとしているのが分かった。血の気の失せた顔は蒼白で、整った顔が余計に人形じみている。
浅い呼吸を繰り返す口が、合間に言葉を紡ぐ。微かなそれは、何度か繰り返されてやっと司教たちのもとへと届いた。

「殺させない…」

ふ、と少年の瞳に光が灯る。冬の夜空の、冴えた月のような銀色。一瞬で見る者を虜にするような、それでいて凍てつかせるような、綺麗な色だ。

「殺させない。俺は、あいつを帰す」

どこまでも真摯なそれに誰もが息を飲む中、我に返った一人の司教が慌てて否定する。

「何を言っているんだ。兎に角、危ないから下がって…」

その司教が伸ばした手を、シャハトは払い退ける。

「邪魔するなら、手加減しない」
「誰も傷つけさせない。それは約束する。だから…」

懇願するようにシャハトは言う。

「そんな事を言っても…。第一帰すって…」

なおも食い下がる司教を別の司教が手で制す。

「解りました。あなたにお任せしましょう」
「な?!本気ですか、アレンス司教?!」

遮られた司教が驚いて、アレンスと呼んだ司教を見遣る。どうやらこの教会で最も位の高い司教はこのアレンスのようだ。

「ただし、あなたが危ないとこちらが判断した場合は、手出しさせて頂きますが」
「それで結構です。ご迷惑をお掛けする事、お詫びします」

シャハトはシ者に向き直る。良く見ると、猛禽の足のように見えたのは剥き出しになった骨だった。
シ者を縛りつけていた方術が解かれて、シ者が自由になった。周りから再び悲鳴が上がる。それと同時に、あの子供は何なんだ、とか、教会は何をやっているんだ、と言った罵声が飛ぶ。

「帰す、とはどういう事ですか?だって、シ者は…」
「この世に縫いつけられた歪んだ魂。永遠の苦しみを彷徨う哀れな死者。彼らを救うには、その存在ごと彼らが苛まれ続ける苦痛を消してやるしかないはずですが」

シ者の唯一の救いはその消滅だ。歪んだ魂では、ただ一つの永遠――天界にはもう帰れない。しかし、もしその歪みを治し、天界に帰す事が出来るとすれば、彼らを創ったイヴリースにしかなし得ない。つまり――…

――魔術師なら、シ者を天界に帰す事もあるいは…

シャハトは鞘から剣を引き抜いてシ者を見据える。教会で魔術は使えない。

飛びかかってくるシ者を剣でいなして弾く。それを繰り返しながらシャハトはシ者の身体にあるものを探していた。

――あるはずなんだ。イヴリースが創ったのなら、その存在を示す印が。

イヴリースは彼らが彼の眷属であるという印をそれぞれの身体に残した。二つとして同じもののないそれは、正しく彼らの存在を定義づけるものだ。魔術師にしか見つけられないそれには、印をつけられたもののありとあらゆる情報が記されており、そこには当然元の魂の形も残されているはずだ。それが解れば、歪んだ魂を治せる。

なかなか当たらない攻撃にシ者が苛立ちを露に唸る。咬み殺そうと突っ込んできた頭を後ろに飛んで避けると、ちょうど良く低くなった鼻面を踏み台にシャハトはシ者の背中に飛び乗った。そして、耳の後ろにそれを見つけた。
白い程に銀色の紋様。絡まった糸のようなそれを、シャハトは正確に解きほぐして行く。シ者はシャハトを振り落とそうと激しく暴れたが、不意にその動きが止まった。

シャハトが、その印の上に剣を突き立てたのだ。

「解った、お前の魂の形。これでやっと帰してやれる」

淡い光は漏れて陣を結ぶ。魔術ではない。これは死者を送る為の、魔術師の葬歌。

「<我が眷属よ、今此処に道を示そう。神の加護なくとも、君は常に我が庇護下にある。>」
「<今まで仕えてくれた事、深く、感謝する。>」

陣が崩れる。溶けだした光は柔らかな泡となって空へと昇って行く。だんだん光が収束するのに伴って、その中心が明らかになった。

膝をついたシャハトの手の上には、一匹のリスが横たわっている。その両目は閉じられており、右目から流れていた血の跡が泣いているようだった。しかしそれも、すぐに光の泡となって消える。

シャハトはそれを見てほっとしたように表情を緩めると、意識を手放した。

だんだん遠のいて行く意識の中、視界の端で捉えたそれは綺麗な真白で。
朝露を紡いだような銀色が綺麗だと思った。




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