儚く歪んだ、祈りの綺麗

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10.高慢


拒まないで
お願いだから、そんな目で見ないで
何もしないから
いい子になるから
だから――…


――泣かないで、母上…





+*+


シャハトは跳ね起きる。喉の奥が締め付けられるようで上手く空気が吸えない。シーツを握る手が色を失って震えていた。

――どうして、今更…

あんなものは不毛なだけだ。どんなに願っても空しいだけ。とっくの昔に捨てて来たものが、どうして未だに自分を煩わせるのか。

「結局、何も変わっていない、という事か…」

馬鹿らしくなって、独り呟く。俯いた拍子に胸元で何かが揺れるのに気付いた。

「これは…ロザリー?」

しかもそれは、対極の翼を持つ十字架に、茨に搦め捕られ張り付けられた蝶。<磔刑の蝶>と呼ばれる、アスティール教でもほんの一握りの人にしか持つ事を許されていない、至高位に位置するロザリーだ。

なんでこんなものが、と訝しんで初めて、シャハトはやっと自分がどこにいるのかと言う疑問を持つに至った。それから一気に思い出せる限りの事を思い出して、慌てて左眼に手を当てる。そこに馴れ親しんだ眼帯の感触を感じて、一先ずほっと息を吐いた。幾分落ち着いて室内を見渡していると、コンコンコンと、入室の了解を問う音が聞こえた。それに答えようとシャハトが口を開く前に、ドアが開く。

「シャハト、起きた?」

ひょっこりと、出来た隙間から顔を覗かせたリーラファイエは、シャハトが目を覚ました事を確認すると、するりと室内に入って来る。今度はちゃんとノックできたでしょ、とどこか得意げに言う彼女にシャハトは苦笑した。

「ノックしても、相手が答える前に開けたら意味ないだろ」

言われて初めてリーラファイエは、ああ、そうか、と納得する。じゃあ今度はちゃんと返事待つね、と笑うリーラファイエに、シャハトはそれよりも、と言って胸元のロザリーを持ち上げる。

「これは…?」

リーラのだよな、と確認する。至高位のロザリーも、ソリストなら持っているだろう。

「あ、取っちゃダメだよ、それ」
「何故だ?」
「シャハトが魔術師だから」

リーラファイエはベッドの傍まで寄って来ると手近にあった椅子を引いて座る。シャハトはそれを目で追った。

「洗礼を受けてないから、教会の清気に中てられたんだよね?流石に<磔刑の蝶>を持ってたらカルラも警戒しないと思うから」

もう気分悪かったりとかしない?
尋ねられて、シャハトは教会に入った時に感じた息苦しさや頭痛がしない事に気付く。その様子を見てリーラファイエがくすりと笑った。

「シャハトって、もしかして寝起き悪い?さっきから反応が後手後手なんだけど」
「そんな事は…!」

そこまで勢いよく言ってから口籠る。不機嫌そうに視線を逸らせてから、ぽつり。

「…ない、こともない…かもしれない」

彼にしては歯切れ悪く呟かれたそれにリーラファイエは嬉しそうに笑う。

「意外。シャハトはいつもきっちりしてるから、寝起きも完璧なのかと思った」
「悪かったな」
「褒めてるんだよ?」

今のでどこを褒めているんだ、と言おうとして止める。直後、ノックをする音が聞こえた。ドアを見つめたまま何も答えないシャハトをちらりと横目で見てから、リーラファイエが代わりに入室を促す返事をする。シャハトが隣でベッドを降りるのが分かったが、何も言わなかった。
現れたのは白い法衣を纏った司教だった。恐らく、あの時他の司教を制した司教だろう。

「目が覚めましたか?気分はどうです?」

上着を片手に持った状態で、シャハトは司教を見つめたまま答えない。その様子に司教が苦笑した。

「まあ、警戒するな、と言う方が無理ですね。こちらとしても同じ気持ちですから」

「単刀直入に聞きます。あなたは魔術師ですね?」

魔術師ですか、とは聞かない。形だけの確認に、覚悟していた事ではあったが、誤魔化すのは無理だと悟った。

「そうだ」
「そうですか。まあ、そうでなければ困るのですが…いや、そうであっても困りますねぇ」

真意の掴み難い物言いに、リーラファイエの眉が寄る。彼女は回りくどいのが嫌いだ。司教はそれに気付いているのかいないのか、揶揄するような口調で続ける。

「魔術師でもないのにシ者の魂が分かっても問題ですし、魔術師がここにいるのも問題だ。魔術師が民衆の憎悪の対象になるという事は、あなた方のほうがご存じでしょう。ましてや今は雪雨の被害がかつてない程に広がりつつあり、人々の心は死の恐怖に怯えている。その捌け口がどこに向かっているかぐらい知っているでしょうに」

あからさまに取られる、馬鹿にするような態度にも、シャハトは反応を示さない。返したのはリーラファイエだった。

「あなたは、教会は雪雨の原因を知ってるの?今の言葉は、雪雨が魔術師の所為だと言ってるように聞こえる」
「勿論知りませんよ。知っていたらどうにかしてます」

見定めるように自分を伺う片方だけの黒い瞳に肩を竦めて見せる。

「けれど、分からないからこそ原因は何にでもなり得るのです。正体不明のものに対する恐れや恨みの捌け口が、天界の反逆者の血を引く魔術師に向かうのは、自然なことです」

白く濁った瞳までもが苛立ちに染まるのが分かった。見えないはずの瞳がこちらを見据えている。

「それを、あなたは何にも思わないの…?」
「思ったところで仕方ないでしょう。否定するにも正しい原因は提示できない。それならいっそ、魔術師の所為だと思って貰っている方が、こちらとしても都合がいい。案外、本当にそうかも知れませんしね」

反応を伺うように視線を移せば、そこには無表情に佇む少年がいる。傍らの少女が不快さを隠そうとしない所為もあってか、余計にその無表情が際立って見えた。

「雪雨の原因について興味がない訳ではないが、今はそれよりも別の事を聞きたい」

これだけ言われても顔色一つ変えないシャハトにアレンスが面白そうに笑む。

「と言いますと?」
「教会は俺をどうするんだ?」

無駄のない問いにアレンスは内心更に笑みを深める。からかい甲斐がないのは残念だが、頭の良い人間は嫌いではない。むしろこれだけ厭味を言われたにも拘わらず、それらを一切無視して今自分に最も必要な情報を聞き出そうとする冷静さは好ましいものだ。
そうですねぇ、とわざとらしく間を置く。今更彼がこの程度の焦らしに苛立つとは思わないが、これはもう癖のようなものだ。

「魔術師は、教会が崇めるアスティラに背いたイヴリースを信奉する。教会が魔術師を信用するなんて事は余程の事でもない限り不可能でしょう。それに、雪雨の被害が広がるとともに、シ者の活動も活発になっている。そんなおりに魔術師が教会に現れた。それを危険視するなと言う方が無理でしょう。普通なら身柄の拘束くらいさせて貰うところですが、まあ、今回はあまり普通ではないようですので」

にっこりと、その顔だけなら善人そのもので笑む。

「見逃して差し上げます。何故ソリストが魔術師とともにいるのかという事も含めて、ね」

リーラファイエが椅子から立ち上がってアレンスに一歩寄る。シャハトはそれを黙って見ていた。

「あなたに見逃して貰わなくても、許可は貰ってる」
「そうでしょうね。ソリストの行動を制限出来るものなんて、教会には殆どいませんから」

リーラファイエの苛立ちが濃くなる。それに気付いたアレンスは皮肉げに口元を歪めた。

「本来、ソリストが一人でローゼンベルクを離れる事は許されない。貴女の勝手な行動を、誰もが受け入れている訳ではないのですよ、お姫様」

ぎり、とリーラファイエが歯を噛みしめる。アレンスは楽しそうにその様を見ていたが、予想していた罵声ではなく、冷めた声が聞こえてつまらなそうにそちらに目を向けた。

「教会の内情なんてものに興味はない。見逃してくれるんだろう?なら、さっさとその袖の中のものを返して貰おうか」
「全く、君はからかい甲斐のない人ですね。全くもって面白くない」
「それで結構だ。で?」

興ざめです、と溜息をついてアレンスはそれをシャハトに投げて寄越す。繊細でささやかな装飾を持った細身の剣は、確かにシャハトの剣だった。
シャハトはそれを手早く身につけるとリーラファイエの手を引いて、アレンスの脇を通り過ぎる。アレンスはそれを横目で追うと、二人がドア付近に立ったところで向き直った。

「手間を掛けさせて申し訳なかった。先の事といい重ねて感謝する」

そうシャハトが口にするとリーラファイエが勢いよく振り返る。不機嫌さを隠さないそれに、シャハトは内心苦笑した。

「君の感謝なんてどうでもいいですけれどね。まあ、私としてはそれなりに楽しめましたから、お気になさらず、とでも言って置きましょうか」

ああ、そうだ。教会を出るときは裏口を使ってください。表には人が多い。君に不信感を抱いている者もいるでしょうから。
それだけ言うとアレンスはもう二人に興味はなくしたようだった。シャハトは最後に軽く礼をするとリーラファイエを連れて部屋の外に出た。彼女は勿論、それも気に入らないようではあったが。






教会の裏口なら知っているというリーラファイエの後をシャハトが歩く。表情は見えなくても、不機嫌なのは明らかだ。

「リーラ」

ご機嫌とり、という訳ではないのだが、取り敢えず名前を呼んでみる。リーラファイエは答えない。シャハトは溜息をつきそうになるのを何とか堪えた。

結局リーラファイエは外に出るまで一言もしゃべらなかった。シャハトは人に会わなくて良かったなと思う。立場的な問題としてもそうなのだが、傍から見れば酷く滑稽だったに違いない。

「リーラ、そんなに不機嫌になるような事じゃないだろ。確かに言い方は悪いかもしれないが、あの司教が言っていた事は事実だ。それにこうやって見逃して貰えるのも、口で言うほど簡単じゃない。彼が周りを説得してくれたんだろう。感謝こそすれ腹を立てるのは…」

「分かってる!」

宥めるようなシャハトの言葉はリーラファイエの激しい口調に遮られる。

「分かってるし、知ってる。あの後、半分恐慌状態に陥った人々を抑えたのもあの人だった」

人間は自分では及ばないような力を目にしたとき、その所有者を称えると同時に排除しようともする。過ぎた力は危険だと。況してや極度の緊張状態にある人々が、それを受け入れることは難しい。恐怖や不審に嫉妬――そういった負の感情が目に見えそうで気持ち悪かった。身体が竦むほどには、気持ち悪かった。
そんな中、あの司教はそんなものはまるで存在しないかのように、倒れたシャハトのところまで歩いて行くと現状を確認した。そして、縋るような、問い詰めるような人々の言葉を全て無視して、リーラファイエに歌うよう促したのだ。

――そうそう、今日は良い日なのですよ。だって遥かローゼンベルクからソリストがやって来て下さったのですから。

何事もなかったかのように、今日は良い日だと言い、当たり前のように騒動の前の話の続きをする。合間に向けられた瞳が、こんな事で動揺しているのかと嘲るようで、けれどそれで落ち着きを取り戻せた。

「あの人に歌えと言われてやっと、私は歌えたんだ」

歌うくらいしか、出来ない癖に。
出掛かったそれは、音になる前に飲み込む。生憎、自嘲するのは趣味ではない。

「あの人の言っていることが事実なのも分かってる。でも、私はそれを、正しいとは認めない」

第一、と言ってリーラファイエは後ろを振り返る。色の深い黒の瞳に真白い教会を収めて、射抜くように目を細めた。

「見逃す?そんな高慢な言葉、いつから教会は使うようになった」

こんなもの、私は教会とは認めない。
憎々しげに呟いた。
シャハトは無意識の内に張り詰めてしまっていた気を意識して緩める。リーラ、とまた名前を呼んで、こちらを向いた額を手の甲で軽く小突いた。

「いたっ…くはないけど」
「だから不機嫌になるなと言っただろう。だいたい高慢というなら今のお前の発言も高慢だ」
「…私は個人として言ってるんだもん」

屁理屈を言うな、と言えば、リーラファイエは納得しないようで顔を背ける。けれどすぐに思い直したように表情が明るくなった。やっと機嫌が直ったかと安堵するシャハトに、リーラファイエは嬉しそうに笑う。

「ローゼンベルクに来て、シャハト。本当の教会を見せてあげる」

来ても何も、今更言わずとも目的地はそこだろう、とは思ったが口にはしなかった。どうやら教会に対しては厳しい彼女が誇るローゼンベルクに、少し、興味が湧いた。






その様子を窓から眺める人影が一つ。彼は二人の様子が一段落したのを見ると窓辺から離れて部屋を後にする。歩きながら何かを振り払うように首を振った。

「相変わらず、ソリストの歌は耳に残って嫌ですね」

透き通った綺麗な音がまだ耳の奥に鳴る。人々を一瞬で心酔させるそれは、いっそ凶器とも言える代物だ。
聴く者の感情を強制的に引き込む。その引き込まれた先を不快に思えないのが余計に気に入らない。

「もしかして、これは貴女から私への嫌がらせだったりするんですかね。ねぇ、加護の姫君」

神の寵愛を一身に受ける綺麗な少女。
そして、その傍にいた魔術師の少年。

「恐らく彼が、そうなんでしょうね」

ただの魔術師なら、わざわざ庇いはしなかった。それで今の均衡が崩れようと、自分には関係ない。ただ異常なほど神に愛された少女が選んだ魔術師だという事、そして左眼を隠す理由。

つまり<彼>は<彼女>が探し続けた――…

白い法衣を纏った男は笑う。

「ちゃんと、壊せるんですかねぇ、彼に」

――この世界が。

まあ、どちらにしろ自分には関係ない。何を思ったところで、自分にはどうしようもないのだから。





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