儚く歪んだ、祈りの綺麗

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8.シ者


何の躊躇いもなく一歩を踏み出したリーラファイエに続いて、少しの緊張と共にシャハトは教会の内部、境界(カルラ)へと足を踏み入れる。途端、膜のような微かな抵抗を感じた。まるで水中に身を沈めたかのような感覚に息が詰まる。隣のリーラファイエをちらりと見やるが、彼女に変わった様子はない。という事は、この拒絶を示すような抵抗は自分だけが感じているのだろう。

――洗礼を受けていないからか。

アスティール教に入る為の儀式として、洗礼がある。近くの教会に赴き、額と胸に特別な水を受けるという簡単なのものなのだが、単なる儀式ではないらしい。教会に受け入れて貰う為に必要だと聞いた事があったが、恐らく教会というよりは境界で、この清浄過ぎる空気に中てられないようにする為だろう。肺を圧迫するような感覚とだんだん酷くなる頭痛は、カルラが自らに害を及ぼさないと判断しきれないシャハトを排除しようとしているからだ。

シャハトはゆっくりと、そしてカルラの空気を掻き分けるように細く息を吐き出す。感覚的に呼吸がし難いだけであって、物理的に自分のそれを妨げるものは何もない。どうやらカルラの中では感覚が何よりも先行するようで、それが自分の妨げになっている。理性が感覚を支配下に置く事が出来れば、この息苦しさも何とかなるかもしれないが、理性で感覚をコントロールするのは困難だろう。取り敢えず、気分を紛らわそうかとシャハトは教会の中を見渡した。

三人掛けの長椅子が左右に三列ずつの計六列。真ん中を黒い絨毯が通っている。通路の幅はそれなりに広いようだ。床と壁の色は白いが、日の角度が悪いのか、窓から差し込む光が弱く少し薄暗い。隅にあるのはオルガンだろうか。正面には祭壇があり、その上に鮮やかな色を落とすステンドグラスが嵌め込まれている。その向かい側、今し方シャハトたちが入ってきた扉の上にはバラ窓があった。その両脇には大きな窓があり、どちらもその半分にだけ被さったカーテンが緩く端で留められている。人々は思い思いの場所に座り、司祭の登場を待っている所だ。

シャハト、と名前を呼ばれてそちらに顔を向ければ、リーラファイエと目が合った。

「私、あいさつしてくるね。シャハトは…」
「ここにいる」

現状、最も魔術師に詳しいのは聖職者だ。ふとした事で気付かれるかもしれない。避けられる接触は避けた方が良い。

「分かった。たぶん歌う事になると思うから、ちゃんと聴いてね」
「ああ」
「それと…」

リーラファイエはシャハトに一歩近付くと小さく囁いた。

「気分悪いなら座ってた方がいいよ。あと、祭壇から死角にあるのは前から5、6列目だから」
「え…?」

驚くシャハトに、リーラファイエは苦笑に似た微笑みを浮かべる。

「シャハト、顔色悪いよ。教会の人に気付かれると面倒な事になるかもしれないし、そうでなくても目立たない方がいいでしょ?」

じゃあ行って来るね。
リーラファイエはくるりと身を翻すとホールの横にある扉の方へと駆けて行った。シャハトはその姿が消えるのを見送ると小さく苦笑する。全く、リーラファイエはよく分からない。他人の事なんてまるで考えていないようなのに、ふとした所で鋭い。人に気遣われるのは、正直いつまで経っても馴れなくて苦手なままなのだけれど、それでもやはり、少し嬉しいものだと思う。

いつまでも通路に立っている訳にもいかず、シャハトはリーラファイエの助言を参考に前から5、6列目で空いている席を探す。出来れば端の方が良かったのだが、そこには既に、恐らく周りに遠慮したのだろう、幼い子を連れた母親が座っていたので他を探す。右から2列目の席が空いているのを見つけて、その長椅子に腰掛けている老婦人の了承を得て座った。頭痛はまだ収まらないが、息苦しさは心なしか薄れてきたように思う。いい加減、身体が馴れてきたのかもしれない。

「ご気分が優れないのですか?」

急に声を掛けられて驚いていると、それは隣の老婦人だった。

「顔色がよろしくないようなので」

シャハトの困惑を読み取ったのか老婦人が付け足す。品の良い女性だ。
それ程分かり易いのだろか。先程もリーラファイエに言われた所だったので、下手に誤魔化さない方が良いと思い、少し、とだけ返す。

「最近寒くなりましたからね。風邪のひき始めかも知れません。お大事になさってくださいね」

柔らかい笑顔と共に、そんな温かな言葉を受け取ってしまって、シャハトは内心焦る。結局の所、彼はこういった経験が少ないのだ。取り敢えず、お礼の言葉を述べてから、ひっそりとこの席に座ったことを後悔した。優しくされると申し訳なくなる。魔術師という事を隠している所為で、騙しているような気がする。彼女は今自分が話し掛けている相手が魔術師であると知ったら、どう思うだろうか。

ざわついていたホールが急に静かになる。それに促されるように顔をあげれば、白い法衣を身に纏った司祭が足音を立てずに歩いているところだった。男は祭壇の前で止まると人々に向き直り深く礼をする。

「ようこそいらっしゃいました。皆様に神の御加護があらん事を」

司祭がそうお決まりの文句を口にすると、参拝者は皆一様に、右手を左胸に当てて礼をする。シャハトも一応同じ動作を取るが、形だけだ。アスティール教で相手に神の加護を願うこの礼は、単なる挨拶のようなものだが、魔術師にとっては違う。左胸に手を置いて頭を下げる、すなわち心臓の上に手を置いて首を晒すというこの動作は絶対的な忠誠を誓う仕草で、「私の命をあなたに捧げる」という意味がある。本来、王族にしか取られない礼の仕方だ。数十年前、先々代の教皇の時代にミゼル全土における言語統一がなされ、イリスにいる魔術師もそれに倣いアスティール公用語を母語と同時に学ぶようになったため、イリスの外に出ても会話に困る事はなかったが、この礼にだけはなかなか馴れる事が出来なかった。

「今日はとても良い日です。私どももつい先程知らされたばかりなのですが、とても素敵な方がいらしてくださっているのですよ」

司教の言葉に人々が俄かにざわつく。客人の正体を推測する声が飛び交うが、流石にソリストに行き着く者はいない。それだけソリストの存在は奇特なのだ。

その前に、と司教が口にすれば、人々は途端静かになる。いっそ見事なまでの変化にシャハトは驚くと同時に身体がこわばる。教会は完全に民衆を統制している。司教の言葉一つが民衆を動かせるくらいに。

「この中には通常の礼拝のためではなく、これから巡礼に赴かれるためにいらした方もいらっしゃると思います。その方々も含め、今からする話をよく聞いてください。実は最近、この辺りにシ者が出た、という報告をいくつか受けています」

いくつか息を飲む音が聞こえるが、中にはその事を知っていた人もいるようで、皆不安そうな表情をしている。

「幸い被害は出ておりませんし、我々教会も全力でそのシ者を捜索していますが、どうかお気をつけください。シ者はかの反逆者、死天使・イヴリースについたものたちです。この世に囚われ歪んだ哀れな魂ではありますが、情けを掛けてはいけません。シ者はあなた方に害なすもの。やつらに理性はありません。あるのは苦痛と憎悪のみ。シ者はその存在を消す事でしか救われません」

兎に角、近隣にお住まいの皆様は夜間の外出は控え、巡礼の方も出来る限り早めに宿を見つけるようにしてください。
そうやって司教が注意を呼び掛けるのを、シャハトは複雑な思いで聞いていた。
司教の言っている事は概ね正しい。<シ者>とは“死者”であり“仕者”。イヴリースが神に背いた時、彼に与した者たちだ。イヴリースによって創られた彼らは、神によって創られた者たちのように人の姿をとることは出来なかったが、イヴリースのもとその仕者として、神のそれと同じように天界で暮らしていた。イヴリースの背信は、その生活に満足していた彼らにとっても予想外だったが、彼らはイヴリースがミゼルに降りたと知るやいなや、居心地の良い天界を捨てイヴリースを追った。彼らにとってイヴリースは良き主だったからだ。しかし、イヴリースはミゼルに降り立って間もなくその魂を一人の胎児と同化させたため、彼らはイヴリースに会う事が出来なかった。天界と違い、永遠のないミゼルでは、彼らも滅びなければならない。それは彼らの主が更に主とした神の創りし理だった。それでもイヴリースを置いて天界に戻る事は出来なかったのであろう彼らは、ミゼルに留まり続けた。生にしがみつけば魂は歪む。醜く崩れたそれは、心の清い部分のみを削ぎ落としていき、残ったのは悲しく辛い負の感情のみだった。やがてそれは、彼らの姿さえ醜く作り変え、この世を彷徨う哀れな死者へと変えてしまったのだ。
シ者は苦痛と憎悪で出来ている。明確な相手を持たないその矛先は、この世の全てのものに向けられた。教会がシ者を危険視するのは当然で、彼らを排除しようとするのは仕方のない事だと思う。それでも、その消滅が救いだというのは、どうしても納得出来なかった。消えてしまえば、当然彼らの苦痛も憎悪も消えるだろう。けれど、長きに渡って苦しみ抜いた彼らの魂が天界に帰る事はないのだ。それで、どうして救いなどと言えるのだろう。本当の救いは――…

と、その時だった。ホールの後ろの方で悲鳴が上がる。続いて慌ただしく人々が席を立つ音がし、全員の目がそこへ釘つけになる。誰かが大声で叫んだ。

「シ者だ!」




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