カーテン越しの柔らかな光が外の寒さを感じさせずに流れ込む。それは閉じた瞼も突き抜けて、そっと彼を揺り起こした。
「ん…」
小さく声を漏らして薄く目を開けば、そこに白が映る。シーツの白よりもずっと透明感のある、例えるなら朝露を紡いだような白銀の――
「――っ!」
そこでシャハトの意識は一気に覚醒した。跳ねるようにベッドから飛び起きると、彼にしては荒っぽくドアを開けて部屋を確認する。紛れもなく、自分が昨夜寝た部屋だ。
後ろを振り返れば物の少ない部屋に、宿には必須のベッドと、その上でまるくなった白い塊。勿論シーツや布団の類ではない。その白い塊は、今はこちらに背を向けているのでその銀色の髪しか見えないが、間違いなく人の形をしている。
シャハトはコメカミを抑えると朝から襲って来る頭痛に耐えるように息を吐き出した。ツカツカとベッドの傍まで戻ると遠慮なく掛布を引き剥がした。
「リーラ、起きろ!」
寒いのかリーラファイエの手は掛布を求めて彷徨うが、それが得られないと解ると漸く目を開ける。眠いのか完全には開ききらない寝惚け眼で辺りを見渡してから、ベッドの傍で何やら険しい表情をしているシャハトを見つけて、はてと首を傾げる。
「どうしてシャハトがここにいるの?」
「それはこっちの台詞だ。お前何回目だと思ってる!」
未だ頭は起ききっていないリーラファイエは、んー?、と首を傾げ続ける。挙句の果てに、取りあえずおはよう、なんて暢気な事を言い出すからいい加減頭に来た。眠たそうに目を擦るリーラファイエの手を掴んでベッドから下ろすと、そのまま引き摺るように廊下に出て、隣の部屋へとリーラファイエを放り込む。一度ドアを閉めるがすぐにまた開いて、寝るなよ、と一言添えた。
自分の部屋に戻ると何だか一気に疲れが押し寄せて来て、そのままずるずると座り込む。何で朝から疲れなければいけないのかと思うが、一度や二度の事ではないのでいい加減慣れてしまった方が楽なのかも知れない。しかしそうすると自分の中で何かが終わるような気がした。
ことりとドアに頭を預けて、レウィドコーネの宿での会話を思い出す。
+*+
「要は<雪雨>が降らなくならばいいんだが、自然現象のようなものをどうやって止めるのか…」
シャハトは半ば途方に暮れたように呟いた。<雪雨>だなんて大層な名前が付いているが、人為的なものでない以上それは透明な雨と仕組みは変わらない。どう考えても、何をしても、不可能なように思えた。
「そもそもどうして<雪雨>は降るんだろう?」
物事の根本を辿るようなリーラファイエの問に、シャハトは頭の中で教典を捲る。魔術師であっても、国外の学校に通っていたのだからそれくらいは容易だ。
「…贖罪を請う白の雨。犯した罪の贖いを促す、天の涙。この世界の全てがいずれ応えなければならないもの」
「教会の定義だとね。でも、じゃあ“罪”て何?」
リーラファイエはそれには満足せず、更なる問を投げ掛ける。どんどんと掘り下げられていくそれに、シャハトは投げやりにならないよう答える。
「妥当な所だと、イヴリースを抱えている事だろうな」
我ながら妥当過ぎるとは思うが、それ以外に答えようがない。他に言いようがないものかと少し自分に呆れたが、リーラファイエは差して気にした風もなく淡々と続けた。
「そこが解らないんだよね。神様に最も忠実で、神様に最も近かった天使の堕天。神の瞳を盗んだ理由。彼の真意はどこにあるのかな」
「…そこには拘るんだな」
ふと気になってそう口にすればリーラファイエが、ん?と首を傾げた。
「いや、余り理由だとかそういった類のものに興味を持っていないようだったから」
少し以外に思っただけだ。
そう続けるシャハトにリーラファイエはふーんと他人事のような吐息を漏らす。
「興味はないよ。でも<雪雨>を止めるには必要かと思ったから」
「確かに、それを探るのが一番確実か。<雪雨>はイヴリースの堕天と転生から始まった訳だしな」
「転生?」
耳慣れない言葉にリーラファイエはその単語を繰り返す。転生というもの自体は知識として知っていたが、アスティール教に転生の概念はない。死ねば皆等しく神の御許へと帰り永遠にその地で暮らすとされる魂が、再び生を受ける事はない。一つの魂に生は一つだけ。一度切り。その法則を破ってこの地にしがみつけば、魂は擦り切れ、形は歪む。粘着質な生に絡めとられて無様に張り付けられるしかないのだ。それは終わりのない苦悩と恥辱に塗れていると言える。
そう、苦悩と――恥辱。
その転生をイヴリースが、神に背いたとはいえ最も高潔とされる天使が、やった?
疑問に思って聞き返せば、シャハトは「ああ、そうか」と何か思い当たったかのように呟いて先程の言葉に少しの訂正を加えた。
「転生というより同化だな。神の瞳を盗んだ後イヴリースは地上に降りた。だが地上にあるものはいずれ全て天に帰らなければならない。俗に言う死だ。それを避け、この世を巡り続けるにはこの世に留まる生と同化する必要があった。自分の魂と意志を受け継ぐ器を持った、まだ生まれていない生。矛盾を孕んだ命。彼は一人の胎児に同化し、そしてその魂と意志はその子孫へと受け継がれた。その胎児が後の魔術師の始祖であり、その子孫というのが俺たち魔術師だ」
転生でも同化でも、魂の形が変わってしまった事に変わりはないけれど。
それは言わずにシャハトは言葉を終える。リーラファイエなら、拘らないでいてくれるような気がした。
「意志?それって…」
案の定、リーラファイエはそちらを無視して、また異なる単語に首を傾げる。シャハトはそれに内心ほっとしながら、恐らく彼女も思い当っているだろう答えを告げる。
「イヴリースの堕天理由」
「え?じゃあ、イヴリースが神の瞳を盗んだ理由…」
「解らない」
シャハトはリーラファイエの言葉を遮る。
「イヴリースの魂は確かに受け継がれた。魔力がその証だ。だが、彼が成し遂げたかった事が何なのか、俺たち魔術師にも解らないんだ」
リーラファイエの眉が微かに寄る。
「つまり具体的にどうすれば良いのかはっきりしないのに、それをやらなくちゃいけないの?」
「まあ…」
リーラファイエの責めるような口調に歯切れ悪く返事をする。率直に言ってしまえばその通りなのだが、余りに身も蓋もない。仮にも魔術師の存在理念なのだから、そんな言外に無駄だとか不可能だとかは言って欲しくない。
ちらりとリーラファイエを見遣れば、彼女はあからさまに不機嫌そうだ。機嫌を損ねたいのはこちらだと思いつつも、元々の性格の所為なのか小さく溜息を吐くだけに留める。
「リーラ…」
宥めるように彼女が望んだ愛称を呼べば、ごめん、という小さな呟きが返って来てシャハトは少し驚いた。人が謝る時、その程度がどうであれ、それは何かしら悔いる思いがあるからだ。後悔と言えば少し大袈裟かも知れないが、悪いと思い、そして少しでも償おうと思うから、人は謝罪を口にする。リーラファイエに後悔は似合わない。だから彼女が謝るなんて思いもしなかった。
「魔術師を否定する気はないよ。ただ、私は少しイヴリースに期待をしてたから」
「期待?」
「うん。私は神様が嫌い。それは私たちの何が罰するに値するのか、私たちにどうして欲しいのか具体的に示さずに、ただ償いだけを強要するから。だから私は神様が嫌い。でもイヴリースはその神様に背いた。イヴリースは神様と違う。そう思ってたのに結局は同じなのかと、勝手に失望したの」
リーラファイエの足がぷらぷらと行き来する。どうやらこれは彼女が不貞腐れている時の癖らしい。シャハトは細く息を吐き出して、当初の目的から大きく逸れてしまった話を元に戻す事にした。
「とりあえず今は今後どうするかだろ。かなり話が逸れてる」
「そうだった」
今思い出したかのように、と言って実際そうなのだが、リーラファイエはぽんと手を打って考える仕草をする。しかし、うーんと唸るばかりで何も出て来ない。自身も考えてはみたものの皆目見当がつかなかったシャハトは仕方なく一つの提案をした。
「思いつかないなら、リーラが行きたい所は?」
眉間に皺を寄せて考え込んでいたリーラファイエが顔を上げる。どういう意味か解りあぐねているようすだ。
「『神様が手出しをするから嫌だ』と言ったな。つまりそれはお前の望みを神は手伝うと言う事だ。本当に<雪雨>を止ませたいのなら、そこは妥協して神を利用するべきだと思う」
「神様を利用…」
「まあ、神を利用するなんて少し抵抗はあるが」
神を絶対とするミゼルにおいて、その神を利用するというのは例え魔術師と言えど少々気が引ける。が、そんな心配もリーラファイエには無用であったようで。
「それ良い!」
名案だと言わんばかりの声色と妙にきらきらした瞳で、流石シャハトだ何だと騒ぎながら生き生き続ける。
「そうだ、神様を使えばいいんだ。今まで邪魔にしか思った事なかったけど、案外神様も使えるじゃない!」
思う存分こき使ってやる、と意気込むリーラファイエをシャハトは呆気にとられたように見ながら、やっぱり彼女は普通じゃないと再認識する。少しずつ大きくなる不安には、必至で目を瞑っておいた。
シャハト、と彼女が嬉しそうに名前を呼ぶから視線をやると、口調に相応しい笑顔が迎える。光を受けて輝く銀色の髪が綺麗だと思った。
リーラファイエは真直ぐな眼差しで、迷う事なく口を開く。
「ローゼンベルクが良い。私、ローゼンベルクに行きたい」
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