シャハトは軽く服を払ってから鏡に自らを映す。黒の脚衣に同色の上着。ルクリアの制服と然程差異のない服装だが、校章がなければ問題ない。要はルクリアの学生だとばれなければいいのだ。全寮制の学生が校外を出歩いている。それも確かに問題ではあるのだが、それ以前にルクリアは世界で有数――どころか他の追随を許さない程の金持ち校だ。ルクリアの制服なんて着ていれば、いつ厄介事に巻き込まれても可笑しくはない。
――まあ、既に巻き込まれていると言えなくもないが…
剣帯のずれを直しながら、シャハトは吸った息をなんとか溜息にしないよう苦労して吐き出した。そこでふと、今直したばかりの剣帯、それに吊り下がっている剣に目を止める。小さく銀で装飾された黒い鞘。全体的に品の良いそれは、あまり物に拘らない彼が唯一執着している物だった。いや、執着と言うよりかはむしろ愛着と呼ぶべきかもしれない。与えられたその日からずっと、肌身離さず持っていた。それは国を離れてルクリアに入ってからも変わらず、リーラファイエに呼ばれたその日も然りだ。あの時自分が持っていなければ置いて来る事になっていたのかと思うと、自分に帯剣の癖があって良かったと心の底から思った。
ほっと安堵の息を吐いたところで、少し離れた所から自分を呼ぶ声がする。綺麗に澄んだ良く通る声は間違いなく彼女のものだろう。
シャハトが鏡に背を向けて歩き出せば、彼の左で剣がカチャリと鳴った。
喫茶店を出てからシャハトの希望通り服屋に入った。選んだ服屋は二つの店が合わさっているようで、向って左が男物、右が女物を扱っているらしい。一組の夫婦が営んでいるためか、二つの店はドア一枚で行き来出来る。
「リーラファイエ?」
コンコンとノックすれば入室を促す、リーラファイエとは別の女性の声が聞こえ、彼はそれに従ってドアノブを捻った。
「シャハト―!見て、似合う?」
ドアを開いてすぐに目に入った位置でリーラファイエがくるりとターンをする。その拍子にスカートの裾にあしらわれた淡いピンクのシフォンがふわりと浮いた。全体的には白のワンピースなのだが、所々にアクセントとして黒のレースが置かれている。加えて彼女が身に着けているケープは淵に白いファーが付いている以外は黒いため、彼女の服装から「真っ白」という印象は受けない。
「あのね、おかみさんが選んでくれたの!」
「ちょっと少女趣味かとも思ったのだけれど、この子が余りにも可愛らしくて。試しに着せてみたら凄く良く似合うし、もういいかなーって。久し振り張り切って仕事しちゃったわ」
女の子欲しかったのよねー、と婦人はにこやかに笑う。
「女どころか男もおらんだろうが」
背後でドアが開いたかと思うと、すぐさま少し不貞腐れたような声がした。現れた服屋の主人にシャハトは小さく礼をする。
「嬢ちゃんと違って坊主はシンプルだなぁ。まあ見目が良いから何でも似合うか」
そう言って主人がぽんぽんとシャハトの頭を叩くものだから、彼はぎょっとして硬直してしまう。そんな彼の様子には気付かずに、主人はリーラファイエのもとへツカツカと歩いて行って、彼女をしげしげと眺める。
「にしても嬢ちゃん美人だなー。そこの坊主もきれいな顔してるし…あれか?出来てんのか?」
主人の問題発言にシャハトは一気に硬直が解ける。言われたリーラファイエは何の事か解っていないのかきょとんとしているし、婦人は「あらー、照れちゃうわー」だとかなんとか言って頬に手を当てている。
前日からの疲れもピークに達したところで、流石の彼にも限界が来たらしい。
服やの前の通りには、何かを否定する少年の声が響いたのだとか。
+*+
「お手紙書けたー?」
「書けた――が、何でお前がここにいるんだ?」
「んー?」
首を傾げるリーラファイエはベッドの縁に腰掛けている。
あれから宿を探し、部屋を別々に取った。そう別々に。
「だって一人ってつまんないんだもん」
足をふらふらと振っていた彼女は、それを利用してぴょこんとベッドから下りるとシャハトの傍へと寄って来る。肩越しにテーブルの上を覗き込めば、綺麗で丁寧だがどこか癖のある字で宛名を書かれた封筒が一つ。
「おお!完成してるー」
「いや、手紙に完成も何もないだろ」
取りあえず口にしては見るがリーラアファイエは聞いていない。テーブルの上から手紙を掬い取って何が楽しいのか感慨深げに手紙を眺めている。けれどそこで「あ!」と声を上げた。
「シャハト、切手貼り忘れてるよ」
ほら、と見せて来るリーラファイエの手からシャハトは手紙を取り上げると窓辺へと歩み寄った。それから窓をそっと外へと押し開く。冷たい外気が入り込んで来て、彼は僅かに眉を寄せた。
「いいんだよ、これで。そもそも切手は呪符――いや、こちらでは護符か――の代わりだ。だから自分で術が掛けられるなら切手は必要ない」
言いながらシャハトは手紙を窓の外へと投げる。そっと空へと滑らされた手紙は二、三度ひらりひらりと宙を舞ってから急にはばたいたかと思うと黒い小鳥になった。彼は手紙が高度を取り戻し、宛てられた人の元へと旅立つのを見届けて窓を閉めた。
「便利だね、魔術って」
そういう彼女は先ほどまでシャハトが座っていたところにちゃっかり腰掛けている。彼はテーブルを挟んでリーラファイエの向い側に回ると、否定とも肯定とも言えるような言葉を紡いだ。
「確かに便利ではあるが、それはお前たちの方術も同じだろう。力の出所が違うだけで本質は同じだ。むしろ神から力を借りる分、方術の方がリスクが低くて良いと俺は思うが」
あと展開までの手順がシンプルだしな。
ぽつりと呟くシャハトに、リーラファイエはふーんと解ったような解っていないような返事をする。が、恐らくは後者だろう。何となく解った事だが、彼女は理解を望まない。疑問を持ち、それを口にはするものの、その答えを期待しないのだ。何事にも明確な答えを求めてしまうシャハトには理解出来ないが、まあ彼女にすればその理解も不要な訳で。
良く解らないな、とシャハトは小さく零す。本当にリーラファイエは解らない。考えている事が読めないのだ。
基本、シャハトは余りしゃべらない。そしてしゃべらない人というのは意外と人の心を読むのに長けていたりする。尋ねれば済む疑問も、相手の表情や仕草、ちょっとした雰囲気などからある程度まで無意識に予想してしまうからだ。読心術なんて大したものではないが、だいたいの考えている事は解った。
しかしリーラファイエは予測不能だ。何を考えているのかがさっぱり解らない。今だって彼女は何を思ってかずっと視線を部屋に彷徨わせている。
シャハトはとんとんとテーブルを叩く事でリーラファイエの視線を下ろす。
「取りあえず、確認する。お前は<雪雨>を止ませたい。そしてそれには俺の協力が必要らしい。で、お前は…「ちょっと待って!」」
突然言葉を遮られて何だと思う。目の前のリーラファイエが怒ったような表情をしているので余計だ。
「リーラ」
「は?」
「『お前』じゃなくて『リーラ』て呼んで!」
「はぁ?!」
それが人の言葉を遮ってまで言う事か?というか今さらじゃないのか?
様々な疑問がぐるぐると頭の中を巡るが、リーラファイエは至って真剣であるし、呼び方を変えたところで何か問題が発生するとも思えないので、ここは素直に彼女に従う事にした。正直、人を名前だとか愛称だとかで呼ぶのは慣れていないのだけれど。
「解った。じゃあ、リーラで良いんだな」
うん!と頷く彼女は一体何がそんなに嬉しいのだろう。考えても解らないし、不毛な気がするので止めておく。代わりに先程遮られた言葉を続ける事にした。
「で、リーラは今後について何も考えていないんだな」
「うん!」
そこは元気一杯に頷くところじゃないだろう。
はあ、と溜息が零れる。我慢するのはもう止めた。あるのかないのか解らない幸せの残量なんて知った事ではない。吐きたい時に吐いてやる。
「じゃあ、今後について考えるぞ」
「了解です!」
本当に、何が楽しいのだか。にこにこと笑う彼女は、きっと神様だけでなく、いろんな人に愛されているのだろう。だって、笑っている人を嫌いになる人なんて、いないと思うから。
笑顔の彼女に、つられるように口元が笑った。
+*+
コツコツと窓硝子を叩く音にそちらへと視線をやれば黒い小鳥が入れて欲しそうに止まっている。見覚えのある小鳥に、彼は掛金を外して小鳥が入れるよう窓を少し開いてやった。主人に似て礼儀正しい小鳥は、けれどこれまた主人に似て存外思いきりが良いから躊躇わずに部屋の中へと入って来る。そして彼の前で一瞬止まり、はばたきを止めたかと思うとそのままふわりと元の手紙に戻った。宛名には、綺麗で丁寧だがどこか癖のある字で綴られた自分の名前。差出人は学校に行く為に大陸へ渡った弟だった。弟と言っても母親が違う、所謂腹違いであるから正確には異母弟なのだが、そんな事は関係ない。今の国王は正妃の他に側室を一人しか持たなかった上、双方に一人しか子がなかった。つまり異母だろうが何だろうが、唯一の兄弟なのである。おまけに懐いてくれているものだから、これで可愛くない訳がない。数日前に行方不明になったとの連絡を受けて、大丈夫だろうとは思いながらも少し気になっていたから、こうやって明確に無事だと示すものが現れるとやはりほっとする。封蝋を剥がして出て来た中身はなかなか簡素なものだった。
まず自分が無事であるという事。続いて迷惑を掛けてしまって申し訳ないといった謝罪。現状の説明。それから陛下には自分の方からお伝えして欲しいと書いてあり、最後はこちらを気遣う一言で締め括られている。要点を絞っていると言えば聞こえは良いが、少し愛想がない。
相変わらず几帳面なんだか無精なんだか。取りあえず真面目なのは確かだな、と独り言ちる。十五歳だからまだ子供と言えなくもないが、年頃と言えば年頃の男女が二人でいるのにそう言った心配が全く浮かばない。くすりと苦笑を零すと彼は手紙を上着の内側に入れると自室を後にした。向かう先は自身とシャハトの父親、現イリス国王がいる執務室だ。
コンコンとノックをして、父上、と呼びかければ入室を促す声が返ってくる。それに従って中へと入れば書類の中から一人の男が顔を上げた。
現イリス国王、ウェルト=ラス=ヴァールハイト。
漆黒の髪に白銀の瞳。月色と例えられるそれは、闇夜を照らす優しい光というよりは寒空でも輝ききる孤高の光だ。半端でない程度に顔が整っているから、外見から年齢を推測する事は困難だが、自分の父親なのだからまあそのくらいの年齢だ。
「なんの用だ、ディヒト」
頬杖を付いたまま視線だけを投げて来る。入った時に何となく気付いたが、今日の父親は機嫌が悪い。正確に言うとここ最近ずっとだ。それでも公の前に出ている時はそんな不機嫌など微塵も感じさせないのだから流石と言ったところか。
「シャハトから手紙が来ました」
「シャハト」という単語に僅かにウェルトが反応する。すっと細められた瞳に様々な感情が過ぎるが、瞬きする程の間に全て掻き消えていた。
「取りあえず無事だという事です。まあ少々変わった事にはなっているようですが、問題ないでしょう」
そんな父親の僅かな変化には気付かない振りをして先を告げれば、そうかという何の感情も籠らない声が返って来た。
「それだけか?」
「ええ」
「では、もう下がれ。仕事がある」
有無を言わせぬ声で言われれば従うより他はない。ここはイリス。国王が絶対的な権力を持つ魔術師の国。
もとより長居する気もなかったので彼は一礼してから退室する。間際に見た国王は頬杖をついたまま、もう書類を眺めていた。
Copyright(c) 2008 Zakuro Karamomo all rights reserved.