リーラファイエに引っ張られるままに入ったのは小さな喫茶店だ。朝食には遅過ぎるし、昼食には早過ぎるこの時間帯、店内に人は余り見られない。何処に座ろうと同じようにも思えたが、なんとなく隅の方に座った。
暖かな空気に包まれて、シャハトがほうっと息を吐く。本人の言う通り、リーラファイエの体温は人のそれよりも高いらしく、握られていた手はそれなりの温度を保っている。が、もう一方の手は動かすのに少し不自由なくらいには冷たいし、何より身体の芯から来る寒さは拭えない。シャハトは目の前の、じーっとメニューを見詰めているリーラファイエを見遣った。自分よりも薄着な彼女が寒そうな素振りを見せる事はない。その様子を見て、シャハトはぽつりと零した。
「それが、加護か…」
ん?とリーラファイエがメニューから顔を上げる。こちらを見詰めてくる黒い瞳にシャハトは尋ねた。
「お前が寒さを感じないのは、加護――つまり神の力がお前を守っているからなんだろう?」
この世界は宗教によって統治されている。
大小様々な国があり、またそれぞれが独自の王を戴いているにも関わらず、その頂点に君臨しているのは教会である。教会のトップである教皇を輩出している家がかなりの名家である事も原因の一つだろうが、その最もたるものはこの世界における宗教が単なる信仰では収まらない事だろう。その例がこの加護と呼ばれるものである。
加護とはアスティール教を信仰する全ての人に与えられるものであり、彼らをあらゆる災厄から守るものだ。と言っても、勿論それは絶対ではない。ただなり難いというだけで、怪我もすれば風邪も引く。
従って、これだけでは加護は曖昧な存在に過ぎず、世界人口の八割を魅了するには至らない。人々が加護を信じ、宗教統治を可能にさせる理由は別にある。
それが、方術。
術者は主に聖職者とされるが、一般の信者にも使えるものはいる。絶対神・アスティラから与えられる力を昇華させて起こす様々な“奇跡”。その力の程度は神から受ける加護の大きさに比例すると言われている。加護が大きければ大きいほど、神からの寵愛は深く、自身の守りは強くなるのだ。
リーラファイエが寒さを感じないのも<白花病>に罹らないのも、神から多大な加護を受けているのだとすれば全て説明が付く。
リーラファイエはシャハトの目を見詰めた儘、真面目な顔をする。どう答えるか決めかねているようだが、それだけで答えは用意に肯定と取る事が出来た。
「別にどうこう言うつもりはない。魔術師が加護を受けられないからといって妬む気もない」
シャハトは半ば探っているようにも取れるリーラファイエの漆黒の瞳から視線を外し、外したそれを窓のへと向ける。細い路地に面したこの席から見える風景に取り立てて描写するようなものはない。暗い硝子は不完全な鏡となって自身を映す。眼帯に覆われた左眼の部分だけが黒い穴のようになって見えた。
魔術師は加護を受けられない。神に背いた彼を唯一絶対とするから。
「加護は嫌い」
唐突に漏らされた言葉の真意を掴みかねて、シャハトはただ無言で視線を戻す。リーラファイエは何処か不貞腐れたように続けた。
「神様って中途半端なんだよね。守るんなら全部守ればいいのに。それが出来ないなら守ってくれなくていい」
言っている内容は内容なのに、子供の我侭のように言うものだから拍子抜けしてしまう。
「そんな事言ったって、仕方ないだろう」
「仕方なくない!自分に従う人だけ助けるとか、器が小さいと思わない?」
「いや、『従う』じゃなくて『信じる』だから。それに神に向かって器が小さいとか言うなよ」
魔術師の自分がどうして神の弁護をしているのだろうといった疑問が少し頭を過ぎったが、気にしている場合ではないような気がして無視する。というか、彼女はアスティール教信者ではなかったのか。教会関係者とまではいかなくても、ロザリーを持っているのだから、恐らく信者だろうと思っていたのだが。彼女の神に対する考えは、およそアスティラを信仰するもののそれから程遠い。そもそも、こんなあからさまに神を非難するものなんて魔術師にもいないだろう。
シャハトは今更ながら、彼女に付いて来た事に後悔と不安を覚え始めた。その間もリーラファイエは神に対して文句を言い続けている。店員が注文していた品を持ってきた所で、リーラファイエのそれはやっと止まった。
「で、なんで温まりに来た場所で食べるのがそれなんだ?」
リーラファイエの前に置かれているのは苺のパフェだ。しかも、苺とバニラのアイス付き。ピンクと白の可愛らしいそれは、何処となく淡い雰囲気のある彼女に良く似合ってはいるのだが、季節には不相応極まりない。
「おいしいから」
シャハトの最もな指摘に、リーラファイエは平然とそう返す。どうしてそんな事を訊くのかと言わんばかりの様子に、そうじゃないだろ、と喉もとまで出掛かった言葉を何とか飲み込んだ。言うだけ無駄だと悟ったのだ。
そんな彼の前には、冷気を帯びたリーラファイエのパフェとは対照的に、湯気の立つココアがある。口に含めば、ほんのりとした甘さが広がって冷えた身体を徐々に温めてくれた。
「ところでシャハト」
「なんだ?」
バニラのアイスを口に運びながら自分を呼ぶリーラファイエに、シャハトは出来るだけその光景を視界に入れないように返事をする。折角温まって来たのに逆戻りしたくはない。
そんなシャハトの様子にはお構いなしに、リーラファイエは口の中でアイスを溶かしてから続けた。
「これからどうするの?」
「……はぁ?!」
予想外の問いに反応が遅れてしまうシャハトだが、無理はない。そもそも呼んだのはリーラファイエだ。その質問を彼にするのは間違いだろう。
「ちょっと待て。俺にそれを聞くのか?」
「うん。だって私、何も考えてないもん」
「考えてないって…」
余りの事に言葉が続かない。が、代わりに聞こえてきたリーラファイエの呟きにシャハトは思考を止めた。
「考えたくないよ。いつだって私のする事には神様が付き纏う。手出しする」
「だから、俺を呼んだのか」
納得したようにシャハトが呟けば、リーラファイエは先ほどと変わらぬ動作でアイスを口に運びながら肯定する。
「うん。魔術師は良くも悪くも神様の影響を受けないんでしょ?」
「まあ、魔術師は王の庇護で生きるからな」
「庇護?」
何気なく口にしたそれが、リーラファイエには耳慣れないものだったらしくアイスの運搬を一時休止して聞いて来る。シャハトは自分の国が外には余り知られていない事を思い出して補足した。
「ああ。イリスは結界で覆われている。その結界の中にいるもの限定で王が護ってくれるんだ。まあその結界自体、王が張ってるんだが」
「へー…あれ?シャハトは今イリスの外にいるよね?じゃあ、その庇護ってないの?」
「そうだ。だが、魔術師には庇護以外にも護ってくれるものがあるからな」
「何?」
「あー、まあお守りみたいなものだと思えば良い。いずれ解る」
ふーん、と気のない返事を返してリーラファイエはまた一口アイスを口に含む。その様子をぼんやりと眺めながらシャハトは緩く思考を巡らせた。
神に愛された存在。神の寵愛を一身に受ける、誰よりも幸せになる事を許された存在。きっと深い感謝と愛をもって、受けた愛に報いるだろうはずの。
そう思っていた――思い込んでいた存在は、実際他の誰よりも神様が嫌いで。
愛されるというのは、大切にされるという事で、それはとても嬉しい事だと思う。そして多分これは、間違いじゃない。大切に思って貰えたら、自分を必要として貰えたら、それだけで安心出来るから。だから、彼女も、愛されるのが嫌いな訳ではないと思う。ただ、神様が嫌いなだけ――…
「…よく、解らないな」
ぽそりと呟いたそれは、リーラファイエには曖昧にしか届かなかったらしく、パフェ用の少し長めのスプーンを銜えたまま「何?」と視線を寄こして来る。シャハトは「いや、」とだけ返してから、彼女の注意が自分から逸れないうちに再び口を開いた。
「今後の事は考えていないんだな?じゃあ、俺の用事を優先させて貰っても良いか?」
リーラファイエは何も答えない。スプーンを口から離し続きを待っている。
「取り敢えず、服。寒い、寒くないに関わらず、ルクリアの制服じゃ拙いんだ。全寮制の学校の学生が休暇でもないのに校外にいるのは不自然だからな」
「それだけ?」
「いや、あと手紙。何も言わずに出て来ているから。そんなに時間は経っていないし、立場が立場だから騒ぎにはなっていないと思うが、連絡くらいはして置かないと」
「あ、そうか。まあ、お金の事なら任せといてよ」
そう言ってリーラファイエは親指と人差し指で輪を作る、あまり行儀のよろしくない仕草をする。そういった俗世間とは隔離されていそうな彼女だから、その仕草があまりにも似合わなくて何となく可笑しかった。
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