朝の眠気を漸く振り払って賑わい出した街を少年と少女が歩いている。
少年の方は黒いズボンに白のカッターシャツ、少女の方は白いワンピースに黒の上着と、冬も間近に迫って来たこの季節には余り相応しくない格好だった。自覚はあるのか、二人は目立たないように通りの端の方を歩いている。
不意に、少女の少し前を歩いていた少年が嚏をする。それを見た少女が、だから言ったのに、と小さく呟いた。
「シャハト。私は寒いなんて感じないから、要らないって言ったでしょ?」
そう言って、リーラファイエは上着を脱ごうとするが、それをシャハトは制する。
「だから、見ていて寒いと言っただろう」
良く見るとリーラファイエの肩に掛かった上着にはルクリアの校章が入っている。袖のない形のワンピースしか着ていなかった彼女を見兼ねて、シャハトが渡したのだ。
「実際に寒いよりマシだと思うけど」
「寒くない」
「嘘。隠しきれてないよ、震えてるの」
見れば、シャハトの身体は小さく震えている。自分が辛抱強い方だという自覚はあるし、弱音を吐くなんて思考も持ち合わせてはいないが、生理現象までは止められない。誤魔化し切れない事実を指摘されたシャハトは小さく舌打ちしてから、リーラファイエに背を向けて歩き出す。彼女は慌ててそれを追い掛けると、その腕を引いて振り向かせた。
シャハトの表情は、普段の無表情な彼には珍しく、不機嫌で塗り固められており、リーラファイエの視線を避けて顔を逸らしている。それにも構わずにじっと見つめていると、シャハトが溜息を漏らした。
「解った、認める。はっきり言って寒い」
「じゃあ…」
「断る」
リーラファイエの言葉が終わるのを待たずしてシャハトは答える。予想通りと言うか、予想以上と言うか、彼は頑固だった。何となくだが、先程の寒いという告白をするに至るまでにも、彼の中でそれなりの葛藤があったのだろう気がして、今度はリーラファイエが溜息を吐く。それに気付いた少シャハトが微かに眉を寄せた。
「何だ?」
「…解った。じゃあ、上着は借りて置くよ。でも、条件があるの」
条件?とシャハトは首を傾げる。それにリーラファイエは頷くと続けた。
「そう。取り敢えず、どこかお店に入って朝ご飯を食べる!」
「別に良いが、金は?俺は持ってないぞ。ルクリアは必要なかったし」
「大丈夫だよ。当てがあるから」
「当て?」
「うん、見てて。いや、聴いてて、かな?」
そう言うや否や、リーラファイエは辺りを見回して少し先に何かを見付けると、駆け出した。
「あ、おい!」
シャハトの制止も聞かずにリーラファイエは、だんだんと増えてきた人々の中に消えてしまう。一体何処に行くんだ、と彼はその背を追った。
彼らが今いるのはレウィドコーネという、あの教会のあった丘の麓の街だ。レウィドコーネは本来、あの丘と教会のみを指す名前であったのだが、教会が廃れるのに伴って、その麓の街がレウィドコーネの名を譲り受けたという。
然程大きくはないが、レウィドコーネは豊かな街だ。多くの人で賑わっている。その中で逸れてしまえば、再会は不可能とまではいかなくとも、多大な苦労を要するだろう。昨日から眩暈に吐き気に頭痛、そして寝不足と身を刺すようなこの寒さ。これ以上の厄介は御免だった。
冬独特の薄い青、雲の溶けた空。澄んだ空気は空をより高く見せる。その中心、その真下に彼女はいた。
広場の真ん中に設置された噴水は、幸運の七姉妹のうちの一人、豊穣の天使像が頭上に掲げた水瓶から水を溢れさせている。その傍らに跪いたリーラファイエの姿があった。広場を行き交う人々は、祈るようにも見える彼女のそれを不思議にそうに横目で捕らえながらも、足を止める事なく過ぎて行く。何をやっているんだと、シャハトがリーラファイエに歩み寄ろうとした時、彼女が立ち上がった。天使像に背を向けた彼女は、閉じていた双眸を薄く開き、自らの胸の前で手を組む。その手にはアスティール教の紋章たる十字架が握られていた。
それからは鮮烈だった。
彼女の奏でる歌に、広場を行き交っていた人々は足を止めて、その源へと目を向ける。そこに佇むのは純然たる白だ。何者にも穢されず、また穢す事も許されない白。朝露で紡いだかのようにきらきらと輝く純銀の髪に、雪の肌。神の寵愛を一身に受けた美しい少女は、その容姿に相応しい声で歌う。歌っているのは、どうやら聖歌の一種のようだが、内容なんてものは頭に入って来ない。彼女の奏でる旋律と震える空気が全てだった。
シャハトはただ真っ直ぐにリーラファイエを見ている。彼女の歌は何度か耳にしたものの、直に聴くのは初めてだった。その歌う姿を真正面から見た事も。
ただ単純に綺麗だと思った。歌と言うよりは少女が、少女と言うよりは世界が。全てが眩しくて、シャハトは目を細める。見えない光が差し込んで、自分の足元にだけ影を残した気がした。彼女の世界は清浄過ぎて、嫌でも自分の存在を意識させる。
どうも昨日から思考が陰鬱な方向に向かって仕方がないな、とシャハトは緩く首を振ってそれを払う。自分の立場を悲嘆する気はない。受け入れたのは覚悟だったから。
それに世界は綺麗だと思う。彼女が齎す清浄がなかろうと、罪を内包して贖罪を強いられていようと、この世界は綺麗だと思う。
途絶えた旋律にシャハトが意識を浮上させると、歌い終わったリーラファイエが観客にお辞儀をしているところだった。一瞬の沈黙の後に割れんばかりの拍手が送られる。何時の間にやら聴衆は増えに増えて、広場にはかなりの人だかりが出来ていた。中には店を放って聴きに来た人もいるようだ。隣の男の右手に握られている魚が何となく哀れに思えたが、気にしない事にする。
誰かがリーラファイエの足元に硬貨を放った。それを切欠に次々と金貨やら銀貨が投げ込まれる。金貨一枚でそれなりの宿に泊まれるくらいだから、彼女の足元で山を成しているあの金の量は異常だ。レウィドコーネが豊かな街で、住民の財布の紐が緩いのも原因の一つだろうが、どうやら人々は彼女を教会の巫女だと思っているらしい。まあ、手に十字架を握って聖歌を歌えばそう取られるのも無理はないし、もしかしたら本当にそうなのかも知れない。シャハトはリーラファイエの事を知らないのだから、その可能性だってある訳だ。
漸く拍手と賞賛が収まり、人々が日常へ動き出したので、シャハトはリーラファイエに歩み寄る。しゃがんで、袋に硬貨を入れていたリーラファイエはシャハトに気付くと顔を上げた。
「あ、これ?親切なおばさんが持って帰るのにどうぞってくれたの」
「いや、一番初めに言うのはそこじゃないだろう」
黒っぽく見える茶色の袋を掲げてそう説明するリーラファイエにシャハトは溜息を吐く。が、不思議そうに首を傾げる少女には何を言っても無駄だと悟ってそれ以上言葉を続ける事を止めた。噴水の縁に腰掛けて、リーラファイエが硬貨を詰め終わるのを待つ。彼女の歌を聴いていた時は忘れていたが、相変わらず寒い。寒いと認めた途端、余計に寒く思われてきて噴水の傍に座ったのは間違いだったな、と思った。
「お待たせ、シャハト……て、大丈夫?」
「は?」
ただ待っていただけの人間に行き成り安否を問われても困る。何がだ?と尋ねようとして、彼女の視線が自分の手に注がれている事が解った。倣って視線を落とせば、白かった手は寒さで赤くなってしまっている。まあ、この時期には珍しい現象ではないし気にしなかったのだが、彼女はそうではなかったらしい。持っていた袋を一端地面に下ろすと、空いた両手でシャハトの手を包んだのだ。
「な?!」
先程から一音しか発していないが、この際どうでも良い。驚いたシャハトは咄嗟に手を引っ込めようとするが、思いの外強い力で握られて抜けない。あからさまに困惑していると、リーラファイエがぽつりと漏らした。
「シャハトってもしかして冷え性?まだこんなに冷たくなる時期じゃないよ」
言われてみればそうかも知れない。元々の体温自体がそう高くなく、夏でも手が冷たかった。身体を動かせばそれなりの温度にはなるのだが、それ以外で自分の手や体温を温かいと思った事がない。そういうものかと思っていたのだが、いつだったか兄にリーラファイエと同じような事を言われて違うと解った。
リーラファイエの問いに「たぶん」と返せば、彼女は呆れたように溜息を吐く。
「なんで冷え性の人が、こんな時期にシャツ一枚でいるかなぁ」
「おい、上着は…」
「解ってる。返さなくて良いって言うんでしょ?それはいいから、早くどこかに入ろう」
言ってリーラファイエは片手に袋を抱え、もう一方の手でシャハトの手を引きながら歩き出した。
「あ、おい、手!」
「私、体温高いからこっちの方があったかいよ」
振り返った彼女は笑って言う。その笑顔と触れた手から伝わってくる体温が擽ったい。なんとなく照れ臭くて俯いたシャハトの顔は、戸惑いながらも嬉しそうだった。
本人は気付かない。それは変化の兆し――…
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