何となく、気付いてはいた。
理由なんか要らない。
頭で理解出来るとも、その必要があるとも、思わなかったから。
差し出された現実を受け止めるだけで精一杯だったから。
“運命”だなんて安っぽい言葉で、抗う事から逃げたんだ。
でも、
もしも神様にこの声が届くのなら、どうか―――…
*+*
軽く弾むような音と共に、少年は、自分の頭よりも少し上にある窓を飛び越える。ここは二階だが、一階分の衝撃なら問題ない。殆ど音を立てずに地へと降りた少年は、そのままセレン礼拝堂の方へと駆け出した。流れる風が少年の背を押して追い立てる。立ち止まる事は許さない、と。迷う暇さえ与えずに。
自分が求められているのか、それとも、求めているのか。それすら解らないけれど、ただ、もうどうしようもない事だけは知っている。走りながら、幼い頃の記憶が自分を通り抜けて行くような気がした。あの頃はまだ、自分に用意された現実が理解出来なくて、向けられる言葉と視線が悲しかった。何時からか、それはケロイドのような痕だけを残して痛まなくなったけれど。
少年は、礼拝堂の前に立つ。吐き出された息が白くなって空気に溶けた。指先が冷たい。心は酷く焦っているのに、頭は嫌に冷静だ。気持ちと行動が一致しない。行動に気持ちが付いて来られない。
何度も何度も、息が白くなっては消えていく。少年はそっと瞳を閉じた。
―――自分がどうしたいのかは知っている。でも、それは選べない選択肢だから。
再び開いた瞳には、扉の取っ手を掴む自分の手が映っていた。
扉を開けば、嘆きの聖女が彼を迎える。誘いの歌は止まない。一歩ずつ彼は彼女に近づいていった。
涙も流さずに泣く少女の姿は痛々しくはあるが、それを補ってなお美しい。
美しいという賛辞がこの世界でたった一つのものにしか送れないのなら、それはこのステンドグラスの彼女にこそ相応しいのだろう。
少年はそっと手を伸ばして届かない彼女に触れる。自分を呼ぶ彼女の声に肯定の意思を伝えなくてはいけない。貴女の叫びに贖うと、言わなくては。
「俺は、貴女に――…」
ステンドグラスを潜った月の光が、彼の伸ばされた手を介して礼拝堂内に満ちる。それは生物の身体を巡る血のように床を這い、緻密な紋様を刻んで行った。中からでは解らないが、それは礼拝堂の外にまで及び、一つの陣を結ぶ。此処と此処でない場所を繋ぐ転移の陣。
自分を此処から引き剥がそうとする力を肌に感じながらも、少年は抗うという事をしない。瞳はただ一点のみを見つめている。けれど、少しだけ、ほんの少しだけ未練があったから、彼は肩越しに振り返る。約束をした、ここにはいない青年に、ただ一言の謝罪と感謝を。
オルター、お前の事はやっぱり苦手だったけれど、感謝してる。勉強は最後まで教えられないけど、お前ならその気になりさえすれば一人でも大丈夫だと思うし、もっと良い先生だって見つかるだろう。でも、俺の事を必要としてくれたのは本当に嬉しかったんだ。
俺のなけなしの生に拙い幸せをくれて、有難う。
それから、少年は微かに笑みの表情を作る。久しぶり過ぎてちゃんと出来ているのか不安だけれど、偶には笑えば良いのにと、何かにつけて漏らしていた青年へのせめてものお礼として。
そうやって作られた彼の笑顔は、彼を包む光に溶けてしまいそうに儚くて、けれど、ほんのりと蕾を膨らませ始めた花のように柔らかで、泣きたくなるくらい綺麗だった。
冬の花は前を向く。自らへと降り注ぐ冷たい現実に、頭を垂れず立ち向かえるよう願いを込めて。
視界を染めた一瞬の白が引いていく。そこは朽ち果て、廃墟となった聖堂のようだった。天井に嵌め込まれた窓から真白い月の光が惜しむ事なく注がれている。その方へと目を向ければ、光を掻き集めて固めたような円形の月が浮かんでいた。辺りには集められる際に零れた星が散らばっている。拍子抜けするくらいに静かで穏やかな空間だった。
踏み出された少年の一歩によって、カツンという靴音が聖堂内に響く。その音に振り向く影があった。
座り込んだその人物の背中を流れて、所々に皹の入った床へと広がる純銀の髪。月光に映える白い肌。そして全てを見透かすような漆黒の瞳。
少年の頭に昼間の幻が蘇る。目の前にいるのはあの少女だった。
「はじめまして」
少女は少年に向き直って言う。その声は旋律のない歌を歌うように澄んでいた。
「俺を呼んでいたのは、お前か?」
少年の問いに、少女は一度だけ首をを縦に振って肯定の意を示す。それを確認してから少年が続けた。
「どうして俺を呼んだ?あの転移魔術陣はお前がやったのか?」
転移の術は魔術師だけが知っている。故に転移魔術陣なのだ。司祭が用いる方術にはない、魔術師だけに許された術だった。それをこの少女が使ったのだと言うのなら、彼女は魔術師なのだろうか。
「あなたを呼んだのは、あなたが必要だったから。転移魔術陣の事は知らない」
「知らない?なら、あれは一体何だ?」
「知らない。私はただ呼んだだけ。あなたが私のもとへ来てくれるよう」
転移魔術陣の事は気になるが、知らないと告げる少女に偽りはなく、望む答えは得られそうになかったので少年は質問を変える事にした。
「先程、俺が必要だと言ったな。どうして俺が必要なんだ?」
それまで淡々言葉を返していた少女はそこで始めて口篭る。そして少しの逡巡の後に続けた。
「必要だから」
「だから、何に?」
ただ必要だと繰り返す少女に、少年はその先の答えを要求する。そうして続けられた少女の答えに、少年は驚きを隠せなかった。
「必要なの、あなたが。この世界を救う為に――…」
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