先程よりかは少し暖かい廊下を彼はまた歩いていた。廊下の真ん中は避けて、端の方を通る。
あの後、とても講義を受ける気分になどなれなかったが、もともと少し潔癖気味の性格であった彼は大した理由もなく講義を休むという行為に耐えられず、気だるげな足取りで講義室に向かった。
今は重苦しいとしか思えない精巧だが重厚な扉を前に、次の講義は前の講義と連続だったな、と思い出す。つまり、先程休んだ講義と今度の講義の教師は同じな訳で、当然そうなれば休んだ理由を問われるだろう。彼は一層気分を重くしながら扉を引いた。
予想通りそこには連続であるが為にそのまま講義室に残っていたのだろう、頭を白くした老教師が、用意された椅子に埋もれるように腰掛けていた。開かれた扉から流れ込んで来た少し冷たい空気に、老教師は顔を上げる。それとばっちり目が合ってしまい、少年は仕方なく老教師に近づいた。その前に立てば、老教師は人の良さそうな笑みを浮かべながら、先程の講義の不在の確認とその理由を訊いて来る。強ち嘘でもないので、気分が優れなかったのだと言えば、本当に心配したような顔をされてしまい、おまけにまだ顔色が良くないようだから次の講義も休むと良いとまで言われてしまった。
よりによって何故この人なのだろうと思う。彼はこういう時、良い人が苦手だった。少しでも自分に後ろめたい部分がある場合、罪の意識を感じてしまうのだ。いっその事、頭ごなしに怒鳴るような人物の方が楽だというのが彼の意見だった。
しかし、講義に気乗りしないのも事実なので、彼は少し逡巡した後、その言葉に甘えて欠席させて貰う事にした。深々と頭を下げれば、今日の講義で解らない事があれば後日訊きにおいでと言われ、彼はまた一礼して講義室を後にした。
そして、今に至る。
彼の横を、講義に遅れまいとしているのだろう男子生徒が駆け抜けて行った。「廊下は走るな」と言う校則は、破られるためにあるのだろう。中庭を挟んだ向い側の廊下を、いつもはそれを唱えているだろう教師が、風も羨むようなスピードで走り去って行くのを見てそう確信する。
視線を元に戻せば、古代の神殿のような建物が目に入る。学院が誇る図書館だ。
三階建ての施設は見た目にも巨大だが、館内は更に広い。地下にあと二つ、同じようなフロアがあるのだ。
大理石の床に暗色の鉱物の破片が校章を描いている入り口から中に入れば、一番初めに目にするのは階下へと下る階段。下りた先が地下一階で、シャンデリアの釣り下がっている天井の向こうが二階だ。地下一階は一階から覗き込めるようになっている。つまり、現在いる一階の蔵書数と床面積は余りなく、この図書館のメインホールは地下一階だと言える。そこへ彼は下りて行った。
そのまま真直ぐに受付へと進めば、こちらに気付いた司書が顔を上げる。地下二階に入れて欲しいのだと言えば、司書は辺りを見回して手の空いていそうな別の司書を見つけると呼んだ。その司書に案内を頼み、地下二階へと向かう。
案内と言っても、何も館内がややこしいという訳ではない。それに地下二階以外であれば、態々司書に案内を頼むどころか、声を掛ける必要すらない。地下二階の入室には司書が同伴しなければならない理由、それはそこにある蔵書が持ち出し禁止であるからだ。要するに、司書は案内と言うよりは見張りなのだ。
きっちりと施錠してある扉を司書が開けてから、中へどうぞと促される。初めは真っ暗で何も見えなかったが、すぐに明りが灯った。所狭しと並べられている本棚の間は、辛うじて人が擦れ違える程度にしか設けられていない。
後ろで何かが床を擦るような音がしたので振り返れば、司書が入り口のすぐ傍に置いてある椅子を引いて座る所だった。“見張り”ではあるが、別に閲覧禁止の本がある訳でもないのでいつまでもくっ付いてはいない。行ってらっしゃい、とにこやかに手を振る司書に一礼して、彼は本の群れへと消えて行った。
古書特有の、黴の生えたような、埃っぽいような匂いが鼻に衝く。幼い頃はその匂いに耐え切れずによく咽たものだが、慣れてしまった今では然程気にならない所か、逆に落ち着くと感じるようになってしまった。
はぁ、と自分でも少し大袈裟だと思うような溜息が出た。そう言えば、溜息を吐くと幸せが逃げると聞いた事がある。幸せ、と言う言葉に彼は少し自嘲気味に笑った。自分とそれとは縁があるのかないのか、他人と比べるのは良くないとは解っているが、多分、自分は付いていない方だと思う。根拠は、一応、ある。
彼はそっと左眼に触れた。正確に言えば、左眼を覆う眼帯に、だ。隠してはいるものの、見えない訳ではない。“見えない"ではなく“見たくない”のだ、その下にある左眼を。眼帯の所為で周りから奇異の眼差しを向けられようと構わなかい。それ程、彼は自分の左眼を呪っている。ともすれば爪を立ててしまいそうになる自分の左手を苛立ちの原因から引き離して、彼は軽く首を振った。緩く押し寄せていた過去の波が引いて行く。らしくないな、と肩を落とした。思えば今日はらしくない事ばかりだ。考えなしに行動するし(彼は良くも悪くも後先を考えてから事を起こさなければ気が済まない)、講義は無断欠席するし、おまけにこの様だ。感傷に浸るなんてどうかしている。
彼はすっと姿勢を正して、目当ての書物を探し始める。すると、それは直ぐに見つかった。黒い表紙に、消えかかった金色の文字で『ルクリアの歴史』と記されている。かなりの重さだったので、行儀が悪いとは思いながらも、床に直接座り込んで、立てた膝の上に本を置いた。目次のページを開いて、施設の項に注意して目を通す。セレン礼拝堂の文字を確認して、彼はページを捲った。
セレン礼拝堂に関しての記述は驚く程少ない。その少し前にあるアルン・ケヒト大聖堂が十数ページ占めているのに対し、セレン礼拝堂についてはページの一枚と半分を漸く越した所で終わっている。書いてある事も一般的で、これと言って新しい情報は得られそうにもなかったが、彼はその短い記述に添えられている一枚のモノクロの写真に目を止めた。
背中に翼のある少女。神の娘であり、天界の宝珠。
ユーフォルビアをモデルにしたステンドグラスは珍しくない。白銀の髪に、白と黒のオッドアイ。背に純白の翼を広げて、いつも柔らかな微笑みを浮かべている。慈愛の姫君の名に相応しい姿だった。
しかし目の前の写真に写っているのは、その白と黒の瞳から透明な涙を零して、縋るような表情で天を見上げている少女の姿だった。一般的に認識されている彼女の印象とはかけ離れたそれを作った職人は、聖女を侮辱したと強く非難され職を追われている。けれど、その職人の腕が確かだったのは、実物を見れば一目瞭然だった。
彼女の翼から抜け落ちたのだろう白い羽が光を纏うなかで、折れそうに細い腕を天に向けて伸ばす少女。水晶の涙が伝う憂いの顔は、この世の何よりも「美しい」という形容が相応しかった。
目を閉じれば、まだ鮮明に思い出されるあの光景。ただの幻覚だといくら自分に言い聞かせて忘れようとしても頭の隅にこびり付いて離れない。その影がちらつく度に自分の奥底から焦りが生まれた。理由は解らない。けれど――…
―――自分はあれに呼ばれている。
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