冷たい白に延びる石造りの廊下を一人の少年が行く。決して何か目的がある為の歩みではないのに、その靴音は規則的で、高い天井を利用して硬く響いていた。
そう、何か目的がある訳ではないのだ。当然、目指す場所もない。しかし、彼はただ歩く。その顔に無表情を貼り付けて、自分でさえもその理由を知らぬままに歩いていた。
その彼が不意に立ち止まる。先程までの天井は途切れ、周りの建物に囲まれて、ぽっかりと穴が開いたように見える空間がそこだった。
自分の進む数歩先、何処とも付かない一点を見つめていた彼はそこでやっと顔を上げる。
見上げたのは白い空。雨空のように鈍く沈んではいないものの、太陽が間接的にしか照らさない世界は、余り明るいとは言い難いだろう。おまけにもうすぐ冬が始まる。あの空に浮かんでいる太陽は、冬独特の、少し冷たい存在になりつつあるのだ。
四方を建物に囲まれている中庭に風はなかったが、目を凝らせば、雲が僅かに流れているのが解った。手の届かない所で吹く風は立ち止まろうとする雲を押しながら、然程差異のない雲を連れて来る。
彼は一つ、溜息を吐いた。吐き出された息は白く曇ってすぐに消える。
自分は一体何をしているのだろう。こんな季節に防寒と言った防寒をしないまま、ただ何となく、人と関わりたくない気がして、今まで一度も休んだ事のない講義をサボってしまった。内容は兎も角、学校に行かせて貰っている以上、きちんと出席するのは当然の義務だ。それを大した理由もなくサボってしまった。
戻ろう。今から講義を受けるのは、時間が経ち過ぎて不可能だが、次の講義には出られるだろう。そう思って、止まっていた足を後ろに引く。踵を返し、もと来た道を辿ろうとして、彼は再び立ち止まる。そしてそのまま振り返った。
先にはまだ中庭が続いている。そしてそれを抜ければ、普段式典などで使っているのとは別の小さな聖堂があった。比較的に規模の大きい建造物が多い中で、その聖堂は隅で蹲るようにひっそりと建っていた。その所為か、日当たりも悪く昼間でさえ薄暗いので、この聖堂を訪れる者は殆んどいない。まして、今は講義の最中。もうすぐ試験も近いので、普段サボりがちな生徒も今頃は必死の形相で、どうにか単位だけは落とすまいと教員の話にしがみ付いている筈だ。それなら、何故―――…
歌が聴こえる――…?
ミゼルの教会や聖堂と言うのは特殊なもので、建てる際に吹き込む風や雨音、太陽や月の光によって何時も様々な聖歌が聞こえるように造られる。しかしそれは旋律だけのもので決して言葉を紡いだりはしない。今聴こえた歌には、澄んだ旋律をなぞる詩があった。
彼は進行方向を元に戻し、吸い寄せられるように歩き出す。気が付いた時には走っていた。
いつもなら何ともない距離なのに息が上がる。聖堂の前で、その両開きのドアに掛けた手は震えていた。
自分がどうしてこんなに焦っているのか解らなかった。不安なのか期待しているのか。そのどちらにしても、それが何に対するものなのかは解らない。彼は冷たい金属の取っ手を握ったまま、半ば祈るように目を瞑った。そして、扉が開かれる。
視界を染める鮮烈的な白。それは正面にあるステンドグラスから溢れていた。
聖女・ユーフォルビア。
神の娘を象ったとされるそのステンドグラスには、記憶の中では、この聖堂には似合わないくらいに華やかな色とりどりの硝子が散りばめられていた。硝子を通して降る光は当然その硝子の色に染められる。しかし、今目にしているそれは自身に差し込む光を染める所か、逆に並々と注がれる白い光に染められてその本来の色を忘れていた。
少年は後退さる。
本能がその場所に踏み込む事を拒んでいた。理性では理解出来ない所で生まれる恐怖心に似た焦燥感。ここは嫌だと警鐘が鳴る。
取っ手から手を離してそこを離れようとするが、金属の冷たい温度がそのまま浸透して彼の手を凍らせてしまったかのように動かない。入室を拒む自分がいる一方で、進もうとする自分がいる。求めて、いる。
誘われるように、後退する足を前へと踏み出す。境界を越えると同時に襲って来た激痛に少年は目を固く閉じた。脳を直接揺らすような痛み。込み上げて来る嫌悪感に呼吸さえもままならなくなる。堪え切れずに膝をついて、口元にないもう一方の手で身体を支えた。
歌が聴こえる。どんなに追い駆けても近づけないような、そんな歌声。
閉じた瞼の裏に少女が映る。
真っ直ぐに流れた、座り込んだ少女の背後で広がる、生まれたばかりのような穢れのない白銀の長い髪。白い頬。長い睫に縁取られた瞳は黒く澄んで、ただただ深い。薄らと色付いた形の良い唇の、その動きからこの歌の歌い手は彼女だと解る。
この世のものとは思えないほどに美しい少女は、細く白い腕を伸ばして、何かを掴もうともがいていた。
彼女が何を得ようとしているのか、それを確かめる前に少女の姿は白い光を伴って収束して行く。それと同時に、突如襲ってきたあの頭痛と吐き気も治まって来たようで、少年は大きく息を吐いた。尋常でない疲労感にそのまま意識が暗転しそうになったが、どうにか重い瞼を上げる。再び開いた視界には何時もと同じ色をした慈愛の姫君が映っていた。
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