甲板に出ると、風は西から東に吹いていた。決して強くはない、そよ風に似た優しい風。あまい香りとともに何かを運んでくる。これは――歌?
辺りを見回して香りと音の主を探す。そいつはすぐに見つかった。
光に溶けそうなきれいな金色の髪に、深い海の蒼の瞳。
船の手摺に頬杖をついて、どこか、私の知らない国の言葉で歌ってる。意味はわからないけれど、でもとてもきれいな優しい歌。
私が傍まで行くと、彼は歌うのをやめて、やあとあいさつをした。くるりと回って今度は背中を手すりに預ける。
「何かご用かな、小さなお嬢さん?」
きっと、言葉だけならこんなに嫌みな感じはしないのね。でも彼の仕草と合わさると、とっても意地悪。おまけに何だかバカにされたみたい。
「ええ。あなたの歌ってらした歌、とてもきれいだったわ。でも、わたくしの知らない言葉でした。ねえ、どういう意味なのか教えてくださらない?」
私はできるだけ丁寧に言った。だってその方が大人っぽく聞こえるし、ママは知らない人と話すときにいつもこうするもの。
「それはどうも。でも意味は教えられないな」
「どうして?」
「教えたくないから」
言って、くすくすと笑う。その笑い方がとても意地悪で、頭にきて――――
「それなら結構!!」
捨て台詞を吐いて、私はぷいと彼に背を向けた。甲板の板を、これでもかってくらい踏みつける。
最後にもう一度にらみつけてやろうと振り返ると、彼はもうさっきと同じ体制。私のことなんかちっとも気にせずに、その蒼い瞳に同じ蒼の海を映している。
もう!石があれば投げつけてやるのに!!
あいつは数日前にふらふらとやって来た。
―――ルフタルに行きたいのだが、何分金がない。良かったら乗せてくれないだろうか―――
私たちの船は商船で、キルシェでとれた香水をルフタルに売りに行くところだったから、船長である私のパパは快くその申し出を受けた。
初めてあいつを見たときは、そんなに悪いイメージはなかったのよ?
ママがきれいな子ねって言って、本当にその通りだと思った。ちょっと弱そうにも見えるけど、色が白くて、ほっそりしてて。瞳は、あの時はそんなに濃い色だとは思わなかったんだけど、きれいな青色で、ママの指輪についてる宝石みたいだった。それに、何より―――…
髪の色がね、いいなーって。
ママはそっちより、肌の白さとか、細い体型だとかの方がうらやましって言ってたけど、私には髪の方がずっとうらやましかった。
私の髪の色―-黒色なんだけどね、嫌いなの。だって暗いでしょ?夜みたい。
知ってる?夜の海ってすっごく怖いの。飲み込まれそうなんだよ。だから私は夜が嫌い。夜みたいな私の髪も、嫌い。
でも、昼は好き。大好き。
お日さまはあったかいし、明るいし。海もきらきらしてて、お魚をとりにきた海鳥たちが頭の上を飛ぶの。手を振ったら一声鳴いてあいさつをしてくれる。海鳥さんとは私、友達なのよ。すごいでしょ?
だから、あいつのお昼のお日さまのような髪はうらやましい。と言うか、あんな意地悪な人にはもったいないわ!
というわけで、腹が立ったので不貞寝します。おやすみ!
*+*
紺色の空には白い月が出ている。昼の間はあんなに暖かくて優しかったそよ風が冷たい。蒼かった海はぽっかりと黒い大きな口を開けていた。
そんな昼とは大きく変わってしまった風景に、昼と同じ影。
船の手摺に頬杖をついて、あの歌を歌ってる。瞳の色は海と同じ……黒?
私が傍まで行くと、彼はまたくるりと回って、これも昼間と同じ体勢。
「ねぇ、聞きたい事があるのだけれど、良いかしら?」
「何かな、小さなお嬢さん?」
そう言ってまた意地悪そうに笑う。もの凄く腹が立つけどここは私が大人にならなくちゃね!
自分を落ち着かせるために、深呼吸を一つ。
「あなたの瞳、一体何色?」
「さあ?何色だろうね?」
何となく予想していたものの、やっぱり腹が立つ。
「もう!ねぇ、お願いだから真面目に答えて!!私、このままじゃ気になって夜も眠れないわ!!」
「それは昼の間によくお眠りになったからと思うのだけれど?」
「うぐ…」
言い返せない。実はあの後自分の部屋で晩ご飯まで寝ちゃったの。それで、なんか目がさえちゃって眠れなくて甲板に出てきたから。本当のことだけど、ううん、本当のことだから悔しいー!
「ねぇ?」
問いかけられて顔を上げる。
「僕の瞳は今何色に見える?」
彼はちょっとだけ視線を上げて夜の空を見つめている。
「えーと、黒・・・いや紺、かな?」
夜空の色に、よく似た。私の返答に満足したのか―――してないのかは解らないけれど、彼は次の質問をする。
「そう。それなら、これは?」
そっと身体をずらす。彼の背中だけを照らしていた白い月の光が顔に落ちる。
「あ、れ?」
確かに、さっきは紺色に見えたのだけれど。
今、彼の目は月の光を掬ったように白い、色。
「どうなってるの?」
空の紺と月の白、それから海の黒へところころ変わる彼の瞳をじっと見つめてみる。見たところで、どうなってるかなんてさっぱり解らないけれど。
「どうも何も、見た通り?」
首を傾げてくすくすと笑う。
見た通り…見た通り…見た通り…見た通り…見た通り…見た通り…みたとおり
私は彼が言った言葉を頭の中で繰り返してみた…つもりだったけど、どうやら声に出ていたらしく、それを聞いていた彼があからさまに溜め息を吐いた。
「バカかい、君は?」
はあ?た、確かに思ってた事をそのまま言っちゃうなんてちょっと――と言うか、かなり間抜けで恥ずかしいけど何であんたにバカ呼ばわりされなきゃなんないのよ!
言い返そうと口を開くと、私が言葉を紡ぐより先に彼が続ける。
「見た通りと言っただろう?僕の言葉を繰り返した所で如何にもならない。ああ、それとも小さなお嬢さんには難し過ぎたかな?見た通りとはこういう事だ」
そう言って凭れていた手摺から体を起こすと腰を折って私に顔を近づける。紅茶とお菓子の甘い香りがして―――…
「ぎゃあ!」
思いっ切り叫んだ。
直に被害を被った彼は軽く耳を塞いでしかめ面をする。
「うるさいな。そんな近くで叫ばないでくれ。それに、さっきのは余りにも」
「品がない」
そして溜め息。
ぐっ…確かに「きゃあ」なんて可愛らしい悲鳴上げれなかったけど、でも、さっきのはあいつが悪いの!あいつが、その……
と、とにかく!私は悪くないの!!それに素敵なレディだって偶には悲鳴に濁音の一つや二つ付けるわよ!
真っ赤な顔でじっと彼をにらんでいる私を見て、彼は肩をすくめた。
「何を勘違いしたのか――まあ、大体の予想は着くけど、聞いて来たのは君だろう、小さなお嬢さん?二度目はないから今度は叫ばないでくれたまえよ?」
そう言って今度は私の前にしゃがんで真直ぐに私を見上げる。
「さて、今の僕の瞳には何が映ってる?」
問われて彼の瞳を覗き込む。次々に色を変えるその不思議な瞳は今は黒。映っているのは、
「私?」
彼は私を見ているのだから当然そう。当たり前。でも、ちょっと変。だってきれいすぎるんだもん。
ああ、きれいって何も映ってる私が実物よりきれいって意味じゃないわよ。ほら、普通、瞳に映ったものってもともとの色が解りにくくなるでしょ?彼の瞳にはそれがないの。見ているそのままに彼の瞳は私を映す。それはまるで――…
「鏡みたい…」
ぽそりとそう呟くと彼は満足そうに微笑んで立ち上がった。
「ご名答。僕の瞳は見たものをそのまま映す。君が言うよう「鏡みたい」にね?」
「どうして?」
「さあ、それは知らない。―――まあ、そうにらまないでくれよ。本当に知らないんだから?」
なんで最後が疑問系なのよ、とも思ったけれどきっと今度は教えてくれないだろうから聞かない。だから私は別の質問をした。
「じゃあ、初めて会ったときよりも昼間の方が瞳の色が濃かったのは」
「そう、空の青よりも海の蒼の方が濃い色だから」
「夕焼けのときは朱いの?」
「まあ、沈んでいく太陽と同じ色ではあるね」
「お花を見たらその色になる?」
「薔薇なら赤に、向日葵なら黄色にね」
私は彼の瞳をじっと見つめてみる。いろんな色を受け取る瞳は今は黒。それは私を映すから。
はあー…
「やだなー…」
「おや、いきなり否定されるとは思わなかったな」
彼はあからさまに「心外だ」とでも言うような顔をする。あからさますぎて本当は何とも思ってないことが丸解りなんだけど。
「違うよ。嫌なのは私のこの真っ黒な髪のこと。もっと明るいきれいな色だったら、ティーレの瞳にもよく合ったのになぁって」
そう思っただけ。
「ふーん」
彼は興味なさ気に呟いて空を仰いだ。彼の瞳は鏡だから、夜空に散らばったお星様まで、その瞳に映してしまう。
「ねえ?」
彼は空を見上げたままだ。見上げたまま、言葉だけを私に向ける。
「黒は良いと思わない?」
「思わない」
告げられたのは思いがけない問いだったけど、即答してしまった。だって、黒なんて嫌いなんだもの。
「じゃあ、これも嫌い?」
軽く、苦笑に似た笑みを零した後、彼が指差したのは、彼が見上げている夜空。お月様の周りは少し光に溶かされて紺色に見えるけど、それ以外は真っ黒。でも、あちこちに鏤められたお星様が宝石みたいでとってもきれい。
「ご存知かな、小さなお嬢さん?あの星は昼の間も出ているんだよ?」
「うそ?!」
だって、私、お昼にお星様を見たことないもの!
「太陽は明るすぎるからね、星の微弱な光は飲み込まれてしまう。けれど夜になればあの黒いカーテンが日の光を遮って、小さな星を見つけてくれるのさ」
「じゃあ、お星様がきれいなのはあの黒のお蔭なの?」
「まあ、そういう事になるかな?」
「へー」
知らなかった。私の大嫌いな黒がこんなところで役に立ってるなんて。
「それと、もう一つ」
今度は言葉と共にその顔も私の方に向けて。
「黒は女性を綺麗にするというのは知っていたかな?」
「え?」
驚いて振り向いた先を柔らかな金の髪が流れた。光に溶けるほど明るいのに、どこか落ち着いた色。派手でも地味でもなくて、きれいだなとは思ってた。
細い指が私の髪に触れる。ひんやりした手の温度が伝わる。
真黒な夜に咲いた赤い花。
「小さなお嬢さんに、プレゼント」
月明かりを含んだ水面に、黒い髪と赤い花飾り。目の前の彼は微笑んでいる。決して、いい人そうには見えないけど。
「あの、これ…?」
私が問えば、彼はまたふわりと微笑んで、傍のベンチに腰掛けた。左足を上にして足を組む。
「小さなお嬢さん、君の髪は真直ぐで綺麗だから伸ばすと良いよ。それに色味が欲しいならそうやって飾れば良い。折角黒は色が良く映えるんだから」
違う色が良いなんて贅沢だ。
そう言って彼はくすくすと笑う。それを見ていると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。今まで髪の色で悩んでいたのがバカみたいに思えてきたから。
「なんで笑うのよ?」
「さあ?でも、誰かさんみたいに膨れっ面しているよりかは良いだろ?」
それから、また彼は続きを笑う。
何と言うか…腹立つ!
「さて、小さなお嬢さんにはそろそろお休みの時間だけれど、最後に海はいかかがかな?その様子だと、夜の海についても誤った見解を持っていそうなのでね」
彼はベンチに座ったまま後ろの海を指す。要するに一人で見て来いということなのだろうけど、
「嫌よ」
「どうして?」
だって、
「怖いんだもん」
ぽっかりと大きな口を開ける夜の海は、私を不安にさせるから。黒が嫌だとはもう思わないけれど、それとこれとは別。
「仕方がないな」
私が渋っていると彼は小さく呟いて、ベンチを立つとコツコツという足音と共に近づいてきて、
そっと、私を抱き上げた。
「きゃあ!」
「だから、騒ぐなって。もう忘れてしまったのかな?小さなお嬢さんはこれだから困る」
「うるさい!て言うか、降ろしなさいよ!!セクハラー!!!」
「安心したまえ。僕は小さなお嬢さんには興味がないので」
それはそれでムカつくんですけど!!
話しながらも彼は暴れる私を抱えたまま手摺の方へと進む。真っ黒な海に向かって。
「いいかい、小さなお嬢さん?黒の恩恵を受けたのは何も夜空だけではないのだよ?」
私の目の前、眼下に広がるのは真っ黒な、星空の海。夜空をその下で受ける大きな鏡。月はその白を歪めて漂い、星は泳ぐ。
「君はこの海を知っていたはずだよ、小さなお嬢さん?けれど、君は夜の海が嫌いだと言うね。それはどうして?」
君は本当に夜の海が嫌い?
「嫌い…じゃないわ。だって、きれいだもの」
私はきゅっとティーレに抱きつく。
「でも、好きじゃないの。お月様もお星様もあるけれど、ほかに何もないの。
一人は嫌い。絶対に嫌よ。夜の海は昼の海に負けないくらいきれいだけど、寂しいんだもん」
「そう」
彼は囁くように呟く。子守唄を歌うように、御伽噺をするように。
「けれど、小さなお嬢さん?この世界で一人になる事はひどく難しいのだよ。自分を記憶する誰かが存在する限り、決して一人にはなれないのだから。一度結ばれた縁は、良くも悪くも、そう簡単には切れないのだから」
「本当?」
それじゃあ、一人にはならないの?
「本当」
彼は意地悪だけど嘘は吐かないから、彼が本当だと言うのならそれはホントウ。
「さて、それじゃあ、小さなお嬢さんはお休みだ。良い夢を…」
彼がそう囁くと同時に私の瞼は降りた。
*+*
「珠花!そろそろ起きなさい。ルスタンに着いたわよ」
ママの大きな声に少し寝ぼけた返事を返しただけで、私はもう一度夢の世界に入ろうとする。お布団を顔まで引き上げてママの声を追い出そうとする――が、結局ママにお布団を掴まれて引き剥がされてしまった。
仕方なしに起き上がって、ぼんやりとした頭で思う。私は一体いつベッドに入ったのだろう。昨日はお昼寝をしすぎたせいでなかなか寝付けず、甲板でティーレといたはずなのに。
昨日のことが夢だったのではないかと疑い始めた頃、
「あら?あなた、その花飾りどうしたの?」
ママの一言で私の意識は完全に覚醒した。昨日のことは、夢じゃない。
「ママ!ティーレは?!」
「ああ、ティーレ君ならさっきお父さんや私たちにお礼を言って船を降りて行ったわよ。それにしても、綺麗な子だったわね。本当、羨ましい。て、あら?」
私は独り呟くママの横を抜けて部屋の外へ出た。もう!一言言ってからでも良いじゃない!ティーレのバカ!!
「待って、ティーレ!」
去っていく背中に声をかけると、ゆっくりと振り返る。小首をかしげて微笑むようすは、やっぱりどこか意地悪だ。
「待って!!」
もう一度大きな声で呼ぶと、彼は向き直って待っていてくれた。
「どうしたんだい?」
下を向いたまま呼吸を整える私に、彼はしゃがんで、私の顔を見上げて問う。七色の瞳は、今は私を映して黒い色。夜闇の帳。
「あのね…」
ん?と彼は聞き返す。綺麗な顔にちょっとだけ照れる。
そっと、そっとよ?
そっと、彼の頬に口付けた。
「は、花飾りの、お返し…!」
彼は一瞬だけきょとんとすると、そっと呟いた。
「参ったな。貰いすぎだ」
それから彼はすっと立って、私の髪を撫でる。
「それじゃあ、小さなお嬢さん?貰いすぎた分はまた今度、もし再び出会う事があったならその時に」
髪を滑る感触が離れたと思ったら、彼はもう背中を向けていた。本当に、あいそがない。さよならくらい言ってくれても良いのに。
でも、その後聞こえてきたあの歌は、もしかしたら……彼なりの、あいそ?
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