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クオラモーネの通り及び自宅にて

…56歳・男・大学教授


        
太陽が春を呼ぶ。花の香はどこまでも柔らかで優しい。時折混じる焼き菓子の良い匂いに甘ったるくて蕩けそうだ。こんな時、この世界は良い世界だと言える。
日差しの暖かな通りを歩くたくさんの人。その中に光に溶ける金色が一人。
客引きの声にも耳も貸さない彼は、だがどこか上機嫌だ。端正な顔は別に笑んでいる訳でもないし、足取りだって軽くない。いつも通りの調子でタンタンと響く靴の音。それでも彼は楽しそうに見える。
恐らくこちらに気が付いていても、そんな素振りを一切見せない彼は私の目の前まで来てやっと、やぁと短い挨拶をした。
「君は何時も行き成り現れるのだな」
「僕には君がいつも行き成り現れるのだけどね」
「それは違う。私は何時も此処に居て、君は何時もふらりと遣って来る」

そう、気紛れな風みたいに。


「おや?それなら此処はクオラモーネ?」
惚けた調子で言う。何処までが本気か解らない。掴めない。風だから。
「知らずに来たのか?」
「まあね」
どちらかと言えば、女性のように見えるその顔でこの性格。黙っていれば・・・関係無いか。どんな時でも、彼は彼だ。
「そんなに僕に会いたくなかったのかい?」
じっと彼を凝視しているとおかしそうに尋ねられた。
私はそれ程酷い顔をしていたのだろうか?いや、きっとしていただろう。私だけでなく彼を知る者なら誰だってそうする。
「ああ。君は意地が悪い」
そんな彼にだから遠慮は要らない。有りっ丈の皮肉を込めて言ったとしても、彼には全く意味を成さないのだから。
ふふ、と笑みを零す。笑うと肩口から垂らした落ち着いた金の髪が揺れた。
「それはどうも」
決して、誉めた訳では無いのだが。
思わず苦笑を零していると彼はふわりと私を通り過ぎて歩き出した。
「何処に行くんだ?」
久し振りに会ったというのに愛想が無い。
疑問に思ってその背中に問えば、ゆっくりと振り返る。必要以上に時間を掛けて。
何時も違う色を映す七色の瞳が意地悪く微笑んだ。

「久しぶりに会ったんだ。お茶の一つでも淹れてくれるのだろう?」

ああ、しまった。声を掛けたりなんてするんじゃなかった。彼に社交辞令以上の愛想が無いのは事実だが、ただで帰ってくれる筈も無い。おまけに彼はお茶に煩いのだから。しかもかなり。
仕方無しに溜息を吐いていると更に一言。今度は前を向いたまま歌うような調子で。
「君のお茶も少しはマシになったかな」
溜め息をもう一つ、追加しても良いだろうか?

少し離れてしまった彼に速足で追いつく。彼の歩調は速いが私も割りと速い方なので丁度良い。並んで歩く姿は周りには少し奇異に映るかもしれないが。なにせ、彼と私の歳の差は40程もあるのだ。
愛想の無い彼は、だが意外とおしゃべりだ。彼は歩きながらずっと何か話している。
王都ランテローザの様子。ルルデの海に出た海賊の噂。東の国の、薄紅の花の咲き具合。シュットカータであった祭りの話。終いには何処ぞの黒猫と白猫の恋の行方にまで、至る。
取りとめの無い話でも私には随分と興味深い。この小さな町に居ては外の事は全て耳新しいし、単純に彼の話し方が好きだったりする。
淡々と。感情を込めずに、事実だけを述べる。時折混じる、事象に関する彼の見解も興味深い。実の所、彼はかなり博識だったりする。
私も一応は「先生」と呼ばれる立場にあるのだが、彼の知識には驚かされる。生徒の中ではもちろん、教員の中でも彼に勝るものはないだろう。まあ、斯く言う私もその一人かもしれないが。

「おや?珍しい。先生が生徒さんと歩いていらっしゃる」

声に振り向いてみれば果物屋の店主が笑いながら話しかけていた。言われて私は隣りを歩く少年に目を落とす。低いと言う程ではないが彼の背は余り高くなく、割と高めな私は彼を見下ろす形になる。彼が生徒?
成る程。確かに私の受け持っている生徒の中には彼くらいの歳の子もいるだろう。私が学校以外で自分の教え子と共に居るということは余りないが、それでも無い訳じゃない。教師と生徒に見えても可笑しくは無い。

だが―――・・・


彼が、生徒?



冗談じゃない!
確かに彼は頭が良い。さぞかし優秀な学生になっていただろうと思う。だが、優秀な学生と優秀な生徒は別だ。彼の前で授業?そんなものをしていたら私はとっくに棺桶の中だ。恐らく、ノイローゼとかで。
「いや、彼は私の友人で・・・」
「そうなのかい?これはまた随分とお若い方で」
にこやかに微笑む店主に何とか苦笑いを隠して別れを告げる。その間、話題に登っていた少年は人事のようにくすくすと笑っていた。




太陽が頭上を覆う頃。いい加減石畳を叩くのにも飽きてきた頃にやっと私の家に辿り着いた。ドアに付けたベルのチリンという涼やかな音と共に中へ入る。光を取り込んだ部屋は明かりを点けなくても充分に明るい。
「相変わらず綺麗にしているね。ねぇ、”先生”?」
私はもう春だというのにぞっとした。またくすくすと笑い出す彼に懇願する。
「頼むからそれは止めてくれ。君が生徒だなんて想像しただけで眩暈がする」
「おや。えらく嫌われたようだね、僕も」
言葉の割にはさして驚いた風も気にしている風もなく…まあ、何とも楽しそうに意地悪そうに笑うものだな、彼は!
「君は生徒にするには頭が良すぎる」
いろんな意味で。
「それは誉めてくれてるのかな?」
「解釈はご自由に」
「そうか。それなら誉め言葉として貰っておこう」
本当に食えない。彼に会った当初は、それでも大学教授というプライドで、一杯食わせてやろうと試行錯誤したものだが、尽くかわされたおかげで今ではそのプライドとやらも部屋の隅で埃を被っている。
「悪いな。マティルデはちょうど今出掛けているんだ。まあ、もう昼だから直に帰って来るとは思うが」
私は椅子に腰掛けるよう彼を促しながら自分も傍の椅子に座る。彼の向かいに座るような形になったので自然に彼と目が合ってしまった。要するに、私は今日何度目かの失態をまたもやらかしてしまった訳だ。
「ねぇ?お客にお茶の一つも淹れてくれないのかい?」
慌てて目を逸らした私に、その意味を理解した上で問う。だから彼は、意地が悪い。
「自分から言うお客も珍しいがね」
「変わり者なんでね」
私はまた溜め息を吐いた。確かに彼は変わり者だ。それは認めよう。
私は観念して椅子から腰を上げてキッチンへと向かった。


ティーポットとティーカップ、それから茶葉とティースプーンをそれぞれ盆に乗せてリビングに戻ると、彼は左足を上にして組んだ状態で頬杖をつきながら、私が机の上に少しばかり散らかしていた生徒の論文を読んでいた。
淡い落ち着いた金色の髪、整った輪郭。白い頬に添えた手は細長い綺麗な指を持っていて、女性も羨む程に滑らかだ。長い睫に縁取られた瞳は七色で、今は差し込む太陽の色を映して金色に輝いている。いや、もしかするとこれは彼の髪の色だろうか。兎に角、実のところの彼は驚くほど端正な顔立ちをしている。おまけに、彼の動作は品が良い。出生を聞いたことはないが、もしかすると何処かの良家の子息ではないのかと疑う。だから、勿体無い。これだけ揃っていてどうして性格はああなのだ。折角の綺麗な顔も品のある動作も全くの無駄になってしまっている。いや、待てよ。これは寧ろ相乗効果で意地の悪さを更に引き出しているのか?
私が一人思案に耽っていると、彼が私に気付き紙面から顔を上げた。頭の中を見透かされたのではないかと、一瞬どきりとする。
「おかえり。それにしてもこの論文の論点はなかなか興味深いね」
取り敢えず気付かれなかったことに安堵し、盆を机まで運ぶ。彼が持っていた論文に目を落とし、ああと納得した。
「それは今私が持っている講座の生徒が書いたものだが、良いだろう?少々文章に纏りがないが、内容は面白い」

『【ヴァロア実在論】
1000年以上前の彼は科学者であり魔術師だった。それも天才的な。彼の知識は海より深く、思考は遥か雲の上。彼の功績を讃える言葉は星の数にも勝り、現代のいかなる科学者も彼には及ばない。彼が大空を羽ばたく鳥なら、我々はまだ太古の海を彷徨う微生物だ。
しかし、現在彼は、その天才的な頭脳故に都市伝説の類なのではないかと疑われている。
確かに、彼は人付き合いを余り好まず、彼に関する書物も少ない。存在が不明確で人々が作りだした空想のキャラクターではないかと言うのも仕方がないように思う。だが、彼が空想のキャラクターだとしたら現代に残る彼の功績は誰のものなのだろうか。それこそがどんな文献よりもヴァロアの実在を物語っているのではないか。………』

彼は論文の冒頭を音読すると軽く笑う。
「確かに、文章の構成については余り誉められたものじゃないな。これじゃ論文とは言えない」
「まあな。だが、私は彼のことは気に入っているよ。初めて会った時からずっとこの【ヴァロア実在論】を唱えてきた。世界はそろそろ彼を――ヴァロア博士を置いていこうとしているのにな」
「君はヴァロアを信じるのかい?」
「いや、君に会うまでは信じていなかったよ」
「と言うと?」
「科学者であり魔術師。あらゆる言語を解し詩文にも通ずる。おまけにその全ての分野において俗に言う“天才”。はっきり言って、都市伝説だと言われた方が納得する」
それだけじゃない。ヴァロア博士が都市伝説だと言われる本当の理由。
ヴァロア都市伝説論を唱えるものの多くは科学者や魔術師などの知識人だ。つまり、認めたくないのだ。たった一人の科学者に1000年も経ってなお、自分たちが及んですらいないことを。だが―――…
「あの日、君に会ってヴァロアは実在したのではないかと信じられるようになった」
あの日、彼はまだ12歳で、私はその12歳の少年に負けた。しかも、彼の専門外の分野で。もちろん、明確な勝ち負けのラインがあった訳ではなかったが、それでも敵わないと思わされた。
一度負けるとかえって清々しいもので、私と彼の付き合いはそこからだ。といっても、彼は世界中を歩き回っていて年に2、3度ふらりと現れるくらいなのだがね。

「なるほど。まあ、そうかも、ね」
彼は何か意味ありげに呟くと席を立った。古い、しかし綺麗な装飾が施され、一目で高価な物だと解る懐中時計を出して時間を確かめる。
「どうした?」
「ん?ああ、もう行くよ。用事があるんでね」
「もうか?」
お茶も飲まずに?
「そう」
私は半ばほっとしながらも、どこか残念な気がした。彼のことは嫌い、というか苦手だが、私はそれでも彼を友人と言う。
「ああ、そうだ」
私は玄関に向かう彼を見送りながら呟いた。
「君はヴァロア博士についてどう思うんだ?」
ん?と彼は聞き返してから一呼吸置くとぽつりと言った。
「彼は、変人だ」
「は?」
なんだって?
「ところで、ファーベル。紅茶に適した水の温度は?」
行き成りなんだと思ったが、取り敢えず答えてみる。
「80度?」
彼はあからさまに溜め息を吐いた。
「バカかい、君は?それじゃあ、今日のお茶も期待できなかったな」
余計なお世話だ、と私は物凄く言いたい。
「いいかい?水は完全に沸騰させなければいけない。でないと茶葉が浮いてしまい、豊かな味と香りを充分に引き出せない。よって答えは100度だ」
私が不貞腐れていると、彼はまた意地悪く笑い、ミセス.マティルデに宜しく、とだけ言うと太陽が僅かに傾いた春の通りに消えた。

私は彼を見送った後、使われなかった紅茶を片付けるためにリビングに戻った。
ふと、あの論文を見やると丁寧な筆跡で最後の方に何か書いてある。

『君の論文は非常に興味深い。が、これではとても論文とは言い難い。まずは、君の先生にでも書き方を習え。その時、序に彼に紅茶の入れ方を教えておいてくれると助かるな。彼のお茶はひどいものだから。それが終わったら、今度はヴァロアに関する文献だけでなく、バルタザールという人物――きっと知らないと思うが――の書いた書物を読んでみると良い。彼は大した功績を残していないが、ヴァロアが唯一面倒を見た生徒だからね』

大した置き土産だ。これを見た彼がどういう反応をするか。この文章を書いた君の正体を教えてくれというだろう。私になんと言えというのだ?世界中を歩き回っている17歳の少年だとでも言えというのか?おまけに一言、いや二言多い。
そう思っても、なんとなく笑みが零れてしまう。彼はまたどこかをふらふらと歩き回っているのだろう。そしてまた、ふらふらとやって来るのだ。


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